お城を空から見てみると。 第1回 小田原城 徳川将軍家の本陣

「お城解説×ドローン空撮動画」の新企画「お城を空からみてみると。」は、普段なかなか見ることのない空からのお城映像と、歴史研究家の小和田泰経先生の解説で、いつもとは違った視点でお城にアプローチします。初回は、徳川将軍家の本陣だった、難攻不落の城として知られる小田原城(神奈川県小田原市)の家紋・狭間・銅門・馬屋曲輪・隅櫓に注目!




小田原城を空から見てみると。

まずは、小田原城の空撮ドローン映像をチェック!普段は見ることができない視点で、お城を見てみると・・・。

小田原城の家紋って?

小田原城の狭間って?


小田原城の隅櫓って?


小田原城の馬屋曲輪って?



小田原城の銅門って?



そもそも小田原城ってどんなお城?

それでは、ここからは泰経先生にさらに詳しく小田原城のあれこれを7つのポイントで解説していただきましょう!

①明応9年(1500)頃、北条早雲が攻略

相模国(神奈川県)の西端に位置する小田原城は、もともと、相模守護上杉氏に従う大森氏の居城でした。しかし、関東管領も務める上杉氏は一族で勢力を争って衰退し、これに乗じて、相模国への進出を図った伊豆国の北条早雲に奪われてしまいます。

江戸時代に書かれた軍記物語『北条記』では、鹿狩りで鹿を追い出す勢子を城内に入れさせてもらい、突如、1000頭の牛の角に松明を灯し急襲したと記されていますが、事実とは考えられません。

古代の中国の戦国時代に、燕に攻められた斉の田単が「火牛の計」で撃退したという故事をもとに創作された物語でしょう。それはともかく、早雲が小田原城を攻略したのは、明応9 年(1500)ごろのこととみられています。

火牛の計、北条早雲、銅像
火牛の計の伝説にもとづく北条早雲の銅像

②上杉謙信と武田信玄を撃退

早雲の死後、2代目の氏綱がこの小田原城を拠点として武蔵国(東京都・埼玉県)への進出を果たし、氏綱の子にあたる3代目の氏康は、関東管領上杉憲政を越後国(新潟県)に追放するまでに成長しました。そのため、永禄4年(1561)、小田原城は、上杉憲政を奉じた上杉謙信率いる10万の大軍に包囲されてしまいますが、撤退に追い込みました。

さらに、永禄12年(1569)には、甲斐国(山梨県)の武田信玄に小田原城を包囲されます。北条氏は、武田氏のほか駿河国(静岡県)の今川氏といわゆる三国同盟を結んでいたのですが、桶狭間の戦い後に衰退する今川氏と断交した信玄によって、攻められものです。このとき、氏康は小田原城に籠城して武田軍の攻撃をしのぎました。

③豊臣秀吉の小田原攻めで降伏開城

氏康の子にあたる4代目の氏政の時代になると、北条氏の領国は上野国(群馬県)や下野国(栃木県)にまで広がりました。そうしたなか、北条氏は関白として天下人となった豊臣秀吉に服属を求められますが、氏政はこれを拒絶します。

北条氏は徳川家康や伊達政宗とも通じていましたので、いざというときには味方になってくれるという期待もあったでしょう。そしてなにより、小田原城は、かつて上杉謙信・武田信玄の攻撃もはねのけたことのある堅城でしたから、籠城しても勝機があるとふんだとしてもおかしくはありません。しかも氏政は、秀吉による攻撃を想定して城下町を囲む堀と土塁を築いています。

この堀と土塁は惣構とよばれ、全長は9kmにも及びました。こうして鉄壁の守りを固めた氏政でしたが、20万を越える大軍の前には、為すすべもありません。結局、徳川家康は秀吉から寝返ることはなく、伊達政宗は秀吉に服属しました。こうして、およそ3か月におよぶ籠城戦のすえ、氏政は降伏開城し、秀吉から自害を命じられます。ここに、戦国大名としての北条氏は滅亡してしまいました。

小田原高校、戦国時代、土塁
小田原高校の敷地の残る戦国時代の土塁

④徳川家康の重臣大久保忠世が入城

北条氏の滅亡後、遺領である関八州を与えられたのが徳川家康でした。ただ、秀吉としても、家康が小田原城を居城とすることには、一抹の不安があったのかもしれません。江戸城を居城とするように勧めたのは、秀吉とも伝わっています。それはともかく、家康は自らは小田原城の支城であった江戸城に入ると、小田原城に重臣の大久保忠世を入れました。

小田原城は、小田原攻めで3か月にわたって包囲されますが、落城したわけではありません。そのため、城内には北条時代の建物が残されており、大久保忠世は、そのまま利用したとみられています。それとともに、堀と土塁で構築されていた小田原城を石垣で改修しました。

⑤瓦に用いられたのは徳川将軍家の家紋

慶長8年(1603)に徳川家康は将軍に任じられて江戸に幕府を開きます。そのあとも、上洛するときには必ず小田原城を宿所としました。そうした傾向は、2代将軍となった子の秀忠の代になっても変わることはありませんでした。いわば、小田原城は、徳川将軍家の本陣だったわけです。実際、本丸の御殿は、徳川家のために空けられており、城主は二の丸御殿に暮らしていました。そうしたことから、小田原城では、建物の瓦に徳川家の家紋である「丸に三つ葵」紋が用いられており、これは、再建された建物にも反映されています。

⑥春日局の子稲葉正勝が改修

北条氏のあとに城主となった大久保氏は、忠世の子忠隣の代に失脚して改易となったため、しばらくは幕府直轄として、城代が派遣されました。しかし、3代将軍家光の時代になると、側近である稲葉正勝を小田原城主としたのです。

稲葉正勝の母は、家光の乳母として有名な春日局でした。つまり、正勝は家光の乳兄弟であり、小田原城をいかに重視していたかがわかります。こうして小田原城は、寛永9年(1632)に入城した稲葉正勝によって改修されました。それは、かつてないほど大規模なもので、正勝が生きている間に完了しなかったほどです。

結局、工事がすべて完了したのは40年あまりも後のことで、正勝の子正則の代になっていました。現在の小田原城は、稲葉氏の時代に改修された姿ということになります。

再建、天守
再建された江戸時代の天守

⑦幕末には海岸に砲台も

貞享3年(1686)に稲葉氏が越後高田に転封となったあと、小田原城には大久保忠世の子孫が入りました。3代将軍徳川家光を最後に、この間、将軍の上洛はありませんでしたが、幕末になると、14代将軍徳川家茂や15代将軍徳川慶喜の上洛が続きます。そのため、小田原城は、徳川将軍家の本陣としての役割を果たすべく求められるようになり、嘉永3年(1850)には小田原城下の海岸に3基の砲台も築かれました。

この時期に将軍が上洛したのは、朝廷の支援を受けながら幕府を立て直すためでしたが、失敗に終わります。結局、幕府は滅亡し、明治維新後、天守をはじめとする小田原城の建物は解体されました。昭和35年(1960)に現在の天守が鉄筋コンクリートで再建されたほか、近年では銅門や馬出門が復元され、幕末の姿を取り戻しつつあります。


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小和田泰経(おわだやすつね)
静岡英和学院大学講師
歴史研究家
1972年生。國學院大學大学院 文学研究科博士課程後期退学。専門は日本中世史。

著書 『家康と茶屋四郎次郎』(静岡新聞社、2007年)
   『戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い』(新紀元社、2010年)
   『兵法 勝ち残るための戦略と戦術』(新紀元社、2011年)
   『別冊太陽 歴史ムック〈徹底的に歩く〉織田信長天下布武の足跡』(小和田哲男共著、平凡社、2012年)ほか多数。

協力:碧水社、Dron é motion

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