明智光秀とその周辺|小和田哲男 第1回 明智光秀のルーツ土岐氏とは

本能寺の変で織田信長を討った武将として知られ、2020年・2021年放送のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公として描かれた明智光秀。連載講座「明智光秀とその周辺」では、ドラマの時代考証を担当される小和田哲男先生が、光秀の生涯に影響を与えた人々や出来事にスポットライトを当てていきます。第1回は、光秀のルーツとされる美濃守護・土岐氏について解説します。(※2020年4月22日初回公開)



土岐光衡銅像
一日市場館址に設置されている土岐光衡の銅像

初代土岐氏は光衡か

明智光秀が美濃守護土岐氏の分かれであることは、「立入左京亮入道隆佐記」に「美濃国住人ときの随分衆也。明智十兵衛尉」とあることや、「遊行三十一祖京畿御修行記」に「惟任方もと明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一家牢人たりしが…」とあることによってたしかであるが、そもそも、その土岐氏とはどのような家だったのか、そこから明智氏がどう分かれていったのかについては、あまり知られていない。

土岐氏は、清和天皇の皇子貞純親王の長子六孫王経基が臣籍に下り、醍醐天皇から源姓を賜り、清和源氏となったのにはじまる。この経基が平将門の乱や藤原純友の乱鎮圧に武功をあげ、やがて鎮守府将軍になり、美濃守にも任じられている。

その後、満仲―頼光―頼国―国房と続き、国房のとき、美濃国厚見郡鶉(うずら)郷(岐阜市)を本拠とするとともに、東美濃の土岐郡(現在の岐阜県瑞浪(みずなみ)市・土岐市・多治見市)に勢力を広げ、美濃源氏ともよばれている。そのあと、光国―光信―光基―光衡(みつひら)と続き、この光衡のとき、居住地にちなみ、土岐氏と名乗ることになった。

ちなみに、瑞浪市土岐町一日(ひと)市場(いちば)の八幡神社がそのときの一日市場館の址で、土塁が少し残っており、昨年9月、桔梗(ききょう)の花を兜に挿した光衡の銅像が設置された。

光衡の孫光定は鎌倉幕府の執権北条貞時の娘を妻とし、幕府内でも重きをなしていたが、光定の子頼貞のとき、家紋の桔梗を冠した一族一揆である桔梗一揆を結び、鎌倉幕府滅亡時には足利尊氏方として活躍したため、美濃守護となっている。

土岐氏、一日市場館
一日市場館址にあたる八幡神社

土岐頼基の子頼重から明智氏に

室町時代は分割相続が基本だったので、土岐氏からいくつもの一族庶子家が輩出している。池田・石谷(いしがい)・揖斐(いび)・多治見・明智氏などである。では、明智氏はいつ、土岐氏から分かれたのだろうか。

現在のところ、たしかな文書で明智の名が出てくるのは、南北朝時代の初期、観応2年(1351)正月30日付の足利尊氏自筆書状(「土岐家文書」)である。その宛名に「あけちひこくろう」とみえ、これが土岐頼基の子頼重のことなので、頼重のときから明智を苗字としたことがわかる。

なお、この文書を含む「土岐家文書」は群馬県立歴史博物館に寄託されていて、現在、今年5月31日まで土岐市美濃陶磁歴史館特別展「光秀の源流~土岐明智氏と妻木氏~」に展示されている。

各種明智系図も、たとえば『尊卑分脈』や『続群書類従』所収の明智系図も、いずれも頼重のところに「明智ヲ号ス」などと書かれているので、頼重から明智氏がはじまったとみてよいのではなかろうか。問題はそのあとで、光秀にどのようにつながるかである。

「土岐家文書」所収の「土岐家家譜」によると、頼重―頼篤―国篤―頼秋―頼秀―頼弘―頼定―頼尚と続き、そのあと、

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と記され、この定政が徳川家康に仕え、はじめ菅沼を名乗り、のち、土岐氏を称したというのである。そして、『続群書類従』所収の明智系図が、頼典―光隆―光秀と、光秀につなげている。

光秀の父親の名前について、この光隆のほか、光綱・光国とするものもあり、系譜関係についてはいまだ謎が多い。

▶第2回「明智城の「竹の越」は館の腰か」はこちら
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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
   『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数

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