理文先生のお城がっこう 歴史編 第56回 秀吉の城8(聚楽第の天守)

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。今回は、豊臣秀吉が都に築いた城・聚楽第(京都府京都市)をテーマにした第3回です。現在、聚楽第の明確な遺構は残っていませんが、当時に描かれた絵画資料などからその姿かたちを推定することができます。天下人の秀吉がどんな立派な天守を築いたのか、資料を通じて探っていきましょう。


『聚楽第(じゅらくだい)図屏風(ずびょうぶ)』や『洛中洛外(らくちゅうらくがい)図屏風』、『聚楽第行幸図(ぎょうこうず)』、『御所参内(ごしょさんだい)・聚楽第行幸図屏風』などの絵画資料には、明らかに聚楽第(京都府京都市)の天守と思える建物が描かれています。今回は、こうした資料(しりょう)から聚楽第の天守について考えたいと思います。

描かれた聚楽第の天守

聚楽第の天守を考える資料として、三井記念美術館(びじゅつかん)所蔵(しょぞう)の『聚楽第図屏風』や『洛中洛外図屏風』(尼崎市教育委員会所蔵)、『聚楽第行幸図』(堺市博物館所蔵)、近年発見された『御所参内・聚楽第行幸図屏風』(上越市立総合博物館所蔵)などの絵画資料があります。ただ、絵画資料については、どこまで正確(せいかく)かがはっきりしないため扱(あつか)いにくいという問題が常(つね)に付いてまわります。実際(じっさい)に聚楽第を前にして写生したのなら良いのですが、人から聞いたことを基(もと)にして書いたり、対象(たいしょう)を大げさに描(えが)いたり、わざとゆがめたりして表現(ひょうげん)したりすることが数多く見られるからです。

三井記念美術館の屏風が天正15~16年(1587~88)、尼崎市の屏風が江戸時代前期、堺市博物館が元和(げんな)から寛永(かんえい)初期、上越市立総合博物館の屏風が慶長(けいちょう)年間と、三井記念美術館の屏風のみが聚楽第が取り壊(こわ)される前で、他の作品はいずれも破却(はきゃく)から数年もしくは25年後の間に製作(せいさく)されたものになります。製作年から考えれば、聚楽第を見聞きした人がまだまだ多数いる中ですので、それ程(ほど)的外れな描き方にはなってなかったのではないでしょうか。

洛中洛外図左隻聚楽第部分
江戸時代前期に描かれた屏風の中の聚楽第です。白亜(はくあ)の四重天守として描かれ、最上階の華頭窓(かとうまど)が印象的です(『洛中洛外図』左隻 聚楽第部分(尼崎市立歴史博物館所蔵))

聚楽第行幸図
元和(1615~24)から寛永(1624~44)初期に描かれたと伝わる絵図で、ここにも望楼型の白亜の天守が描かれています(『聚楽第行幸図』部分(堺市博物館所蔵))

記録に見る天守の姿

屏風には、天守、櫓(やぐら)、門、塀(へい)、御殿(ごてん)、行幸御殿が描かれています。当時秀吉に案内されて聚楽第を見学した各地の大名・家臣、インドの使節団(だん)の記録に天守を案内されたという内容が見当たりません。さらに、二度の聚楽第行幸の記録にも見えません。このことから、天守は建てられなかったのではないかという声もあります。しかし、上記の絵図にはすべて形こそ異(こと)なるものの天守が描かれています。

文献でも「天守」という言葉は見られます。『兼見卿記(かねみきょうき)』天正18年(1590)1月の記録に、側室の摩阿姫(まあひめ)(前田利家の三女、加賀殿(かがどの))のことを「聚楽天主」と呼び、お祓(はら)いをしたと書かれています。聚楽第の天守に住んでいたためこの名があるとか、建物の天守ではなく、聚楽第に住む貴(とうと)い人という意味にもとれます。『言経卿記(ときつねきょうき)(公家の山科言経による日記です。天正4年(1576)から慶長13年(1908)まで30年以上書かれていますが、天正年間に一部欠落があります)の文禄元年(1592)11月の記録では、殿主(天守)を案内され、黄金(天正大判(おおばん)、金塊(きんかい)、砂金等)を見物したとあります。

ついで『駒井(こまい)日記』の文禄4年(1595)4月の記録に殿主(天守)の床(とこ)の間に舶来(はくらい)の高価(こうか)な織物(おりもの)が飾(かざ)られていたともあります。また秀吉が祐筆(ゆうひつ)(文章の代筆が本来の職務(しょくむ)でしたが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成なども行うようになりました)の大村由己(おおむらゆうこ)に命じて書かせた『聚楽第行幸記録』に「瑤閣(楼閣(ろうかく)=天守か)星を摘(つ)んで高く」とあり、天守が高かったことを表していると取れます。こうした記録から見れば、天守は存在(そんざい)したと考えるのが妥当(だとう)と思われます。

天守の姿かたち

それでは、聚楽第の天守はどんな姿(すがた)かたちをしていたのでしょうか。残された絵画資料や同じ時代に建てられたことが確実(かくじつ)な天守建築(けんちく)の記録を利用して推定(すいてい)するしか方法はありません。

最も信頼性(しんらいせい)の高いと言われる三井記念美術館所蔵の屏風(以下三井本)には、北西隅角(ぐうかく)に天守が描かれています。天守は、総(そう)二階建ての入母屋造(いりもやづくり)の二重櫓の上に、外観一階内部二階の櫓を(の)せ、さらにその上に方形の望楼部(ぼうろうぶ)を乗せた外観四重、内部五階の姿で描かれています。二重目屋根は入母屋破風と大きな千鳥破風(ちどりはふ)を設(もう)け、その上に入母屋造の建物を乗せています。さらにその上に載せた望楼には、廻縁(まわりえん)が廻らされ、平側(がわ)には二つの華頭窓(かとうまど)を設け、妻(つま)側には桟唐戸(さんからど)と呼ばれる開き扉(とびら)を設けています。

桟唐戸とは、周囲に枠(竪框(たてがまち)(戸・障子(しょうじ)など建具の左右両側に取り付けてある縦(たて)の枠のことです)上桟(かみざん)(雨戸などの横に渡(わた)した桟のうち、最上端(さいじょうたん)にあるものです)下桟(しもざん)(最下端にあるものです))を組み、枠内にも縦横に桟を入れて骨(ほね)組みを造(つく)り、その間に板をはめた扉のことです。外壁(がいへき)白漆喰(しろしっくい)で仕上げられ、窓は古式の突上戸(つきあげど)が採用(さいよう)されています。それまでの漆塗りの下見板張(したみいたばり)でなく、新式の漆喰塗籠(ぬりごめ)となっていることは注目されます。瓦(かわら)は、いずれも金箔(きんぱく)となっており出土状況(じょうきょう)と一致(いっち)します。

聚楽第
聚楽第が破却される前の天正15~16年に描かれたとされる、最も信頼性の高い屏風です。特異な形の天守で、最上階の望楼部が中央部で無く、片方(かたほう)に寄(よ)っているのが特徴(とくちょう)です。(『聚楽第図屏風』部分(三井記念美術館所蔵))

上越市立総合博物館所蔵の屏風(以下上越本)の天守は、建築学的には存在不能(ふのう)な形をしていますので、デフォルメされているとしか思えません。天守の位置は北西隅角です。外観は五重ですが二重目の階高(かいだか)の高さからすれば、屋根裏階があったことになります。望楼部の下にも階高の低い屋根裏(うら)階が想定されますので、五重七階の天守ということになります。

1・2階同大で二重目は入母屋破風を2つ並(なら)べた比翼入母屋破風(ひよくいりもやはふ)とすれば、その横に描かれている入母屋破風は、千鳥破風ということになります。あるいは、屏風では破風の無い3階屋根に入母屋破風があったのでしょうか。四重目屋根の四方軒唐破風(のきからはふ)も、極めて考えにくい造形(ぞうけい)です。3階屋根が入母屋破風なら、犬山城(愛知県)のような形式で妻側2カ所に唐破風付出窓(からはふつきでまど)を設ければ、かなり近い印象(いんしょう)になります。最上階は廻縁が廻りますが、窓や扉がどのような形状であったかは、「湿原(しつげん)を飛翔(ひしょう)する鶴(つる)」の絵により解(わか)りません。

この絵画は当初から壁(かべ)に描かれたものではなく、行幸する天皇を上から見下ろさないことを示すために板に書いて外から張り付けたと考えられます。外観は、柱形を見せた白漆喰塗籠(しろしっくいぬりごめ)仕上げで、瓦は金箔瓦が使用されています。窓は突上戸になります。一見すると層塔型(そうとうがた)天守にも見えますが、二重目屋根の比翼入母屋破風、さらに入母屋破風が見えることから、望楼型(ぼうろうがた)天守であったとするのが妥当と思われます。

御所参内・聚楽第行幸図屏風
慶長年間(1596~1615)に成立したと考えられる絵図の天守部分です。実際には存在できない形で描かれていますが、白亜の姿と最上階の絵画が極めて印象的です(『御所参内・聚楽第行幸図屏風』部分(上越市立総合博物館所蔵))

上記のように考えれば、絵画資料の天守も現実に建築可能ですので、天守は存在したと考えても問題はないと思います。

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※入母屋造(いりもやづくり)
屋根の形式の一つです。寄棟造(よせむねづくり)(前後左右四方向へ勾配(こうばい)をもつ)の上に切妻造(きりづまづくり)(長辺側から見て前後2方向に勾配をもつ)を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついて出来たものです。天守や櫓の最上階に見られる屋根のことです。

※千鳥破風(ちどりはふ)
屋根の上に載せた三角形の出窓で、装飾(そうしょく)や明るさを確保するために設けられたものです。屋根の上に置くだけで、どこにでも造ることができます。2つ並べたものを「比翼(ひよく)千鳥破風」と言います。

※華頭窓(かとうまど)
鎌倉(かまくら)時代に、禅宗(ぜんしゅう)寺院の建築とともに中国から伝来したもので、上枠を火炎形(火灯曲線)または、花形(花頭曲線)に造った特殊(とくしゅ)な窓のことです。

※白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりごめ)
軒下から壁に至るまですべての露出(ろしゅつ)面(表側に出ている箇所(かしょ)のことです)を漆喰で塗り固めると「総塗籠」と言い、白漆喰で塗り固めた場合は「白漆喰総塗籠」と呼(よ)んでいます。

※突上戸(つきあげど)
軽くて薄(うす)い板製の戸(板戸)を鴨居(かもい)に蝶番(ちょうつがい)または壺金(つぼがね)で取り付け、閉(と)じる時は垂(た)れ下げ、開ける時は棒(ぼう)で跳(は)ね上げて、そのまま棒で突っ張って開けておく戸のことです。

※下見板張(したみいたばり)
大壁造(おおかべづくり)(一般的(いっぱんてき)に柱を見せないように外壁の表面を厚(あつ)く塗ったものです)の仕上げ方の一つで、煤(すす)と柿渋(かきしぶ)を混(ま)ぜ合わせた墨(すみ)を塗った板を張ったもののことです。漆喰仕上げと比較(ひかく)し、風雨に強いのが長所でした。

※金箔瓦(きんぱくがわら)
軒丸(のきまる)瓦、軒平(のきひら)瓦、飾り瓦などの文様部に、漆(うるし)を接着剤(せっちゃくざい)として金箔を貼(は)った瓦のことです。織田信長(おだのぶなが)の安土城で最初に使用が始まったと考えられています。

※比翼入母屋破風(ひよくいりもやはふ)
屋根の隅棟(すみむね)に接続(せつぞく)し二等辺三角形のような形をした破風で、入母屋造の屋根に付きます。この破風を2つ並んで用いた場合、比翼入母屋破風と呼びます。

※唐破風付出窓(からはふつきでまど)
出窓の上に、唐破風(屋根本体の軒先を丸みを帯びた形に造形した破風)を付けたものをいいます。

※望楼型天守(ぼうろうがたてんしゅ)
入母屋造(四方に屋根がある建物です)の建物(一階または二階建て)の屋根の上に、上階(望楼部)(一階から三階建て)を載せた形式の天守です。下の階が不整形でも、望楼(ぼうろう)部(物見)を載せることができる古い形式の天守です。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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