理文先生のお城がっこう 歴史編 第35回 九州の城1(大友氏と臼杵(うすき)城)

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。35回目は「九州の城」がテーマ。戦国時代に九州で大きな勢力を築き対立していた大友氏・島津氏・龍造寺氏の中から、大友氏が拠点にした臼杵城に迫ります。大友義鎮(宗麟)が天然の要害を生かして築いた、堅い守りの城の特徴を見ていきましょう。

戦国時代の九州には、大きな力を持つ三つの勢力(せいりょく)がありました。大友氏と島津(しまづ)氏と造寺(りゅうぞうじ)氏です。大友氏は、鎌倉(かまくら)時代から戦国時代にかけて、豊後(ぶんご)国(現在(げんざい)の大分県)を本拠(ほんきょ)に活躍(かつやく)した一族です。大友能直(よしなお)が源頼朝(みなもとのよりとも)より、豊後国守護職(しゅごしょく)を命じられ、以後世襲(せしゅう)していきます。豊後だけでなく、築後(ちくご)にも進出し、守護大名から戦国大名に成長し、最盛期には豊後・築後・豊前(ぶぜん)・肥前(ひぜん)・肥後(ひご)・筑前(ちくぜん)6ヶ国と日向(ひゅうが)・伊予(いよ)の各半国を領有(りょうゆう)しました。今回は、この大友氏21代当主の宗麟(そうりん)とその城を見ていきたいと思います。

三氏鼎立時代の九州
三氏鼎立(ていりつ)時代の九州(永禄~天正年間(1560~1580年代))

大友宗麟の生涯

天文19年(1550)、二階崩(くず)れの変と呼ばれる内輪(うちわ)もめで、義鎮(よししげ)(後の宗麟)が家督(かとく)(相続すべきその家の財産(ざいさん)などのことです)を受け継(つ)ぎましたが、家内は不安定な状況(じょうきょう)が続きます。翌年(よくねん)、中国地方を支配(しはい)していた大内氏が滅亡(めつぼう)すると、弟・大友晴英(はるひで)(大内義長(よしなが))を新当主として送り込(こ)み、博多を支配下に置きました。さらに、豊後・豊前・築後・筑前と勢力を拡大(かくだい)し、天文23年には、叔父(おじ)・菊池義武(きくちよしたけ)の反乱(はんらん)を抑(おさ)えて、菊池氏を滅亡させ、肥後まで勢力を伸(の)ばしたのです。同年、肥前国の守護にも任(にん)じられました。

天文20年、キリスト教を布教するために日本に来た宣教師(せんきょうし)フランシスコ・ザビエルを豊後に迎(むか)え、キリスト教の布教(ふきょう)活動を保護(ほご)し、また南蛮貿易(なんばんぼうえき)(ポルトガル・スペイン商人との間で行われた貿易のことです)を行い大きな利益(りえき)を挙げると共に、西洋の文化を取り入れました。しかし、キリスト教保護(ほご)が、後に大友家臣団(だん)内の宗教(しゅうきょう)対立を生むことになります。

ザビエル像
府内城の南、遊歩公園の北の入口に建つザビエル像(ぞう)(1969年、佐藤忠良の作)。天文20年(1551)大友宗麟と会見し帰国。その後、西洋の音楽や医術などがもたらされることになりました

弘治2年(1556)、大友庶家(しょけ)(本家より分かれた一族のことです)である同紋衆(どうもんしゅう)にだけ重用な役割を与(あた)えたことに反対して、大友氏が豊後国へ来る以前からここに領地(りょうち)を持って住んでいた武士(ぶし)たちである他紋衆と対立しました。危険を感じた義鎮は、要害丹生島(にゅうじま)城(臼杵(うすき)城)へ一時避難し、そのまま臼杵へ拠点を移すことになります。

丹生島城
16世紀半ばの丹生島のイメージ(臼杵観光プラザ展示パネルより)※臼杵市役所おもてなし観光課ご提供

永禄(えいろく)2年(1559)、豊前・筑前両国の守護に任じられると共に、5ヵ月後には九州探題(たんだい)(室町幕府が九州を統制(とうせい)するためにおいた職(しょく)名です)に補任(ほにん)されます。翌年には、正五位上相当の高官(地位の高い官職です)、左衛門督(さえもんのかみ)に任官されました。こうして義鎮は、名実ともに九州における最大版図(はんと)を築(きず)き、大友氏全盛(ぜんせい)期をつくり上げたのです。永禄5年、出家(しゅっけ)(世俗(せぞく)を捨て仏教(ぶっきょう)の修行(しゅぎょう)をすることです)し休庵(きゅうあん)宗麟と号し、翌年には将軍足利義輝(よしてる)の相伴衆(しょうばんしゅう)に任ぜられます。相伴衆とは、室町幕府の役職的な身分で、三管領(かんれい)を除(のぞ)けば最も高い家格(かかく)になります。

元亀(げんき)元年(1570)、今山の戦いで龍造寺隆信(たかのぶ)に敗れると、反造寺勢力を支援(しえん)して対抗(たいこう)しました。その後、家督を長男の義統(よしむね)に譲り隠居(いんきょ)します。天正6年(1578)洗礼(せんれい)(キリスト教の信者になることです)を受け、キリスト教徒となり「ドン・フランシスコ」を名乗ります。同年、耳川の戦いで島津氏に大敗し、多くの重臣を失いました。その後も、領内の武将らの反乱や、勢力拡大を図る島津氏に対抗することが出来ず、勢いは衰(おとろ)える一方でした。

絶望(ぜつぼう)的な状態(じょうたい)から立ち直らせることを狙(ねら)った宗麟は、すごい勢いで統一(とういつ)事業を進める豊臣秀吉の勢力下に入り、軍事的支援を得るため大坂城で謁見(えっけん)(目上の人に会うことです)しました。やがて、秀吉の命を受けた仙石秀久(せんごくひでひさ)や長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)ら四国勢を中心とした豊臣軍先発隊が、大友氏救援(きゅうえん)に到着します。先発隊は、防備(ぼうび)を固めて豊後で本隊を待つべきところ、大友氏の鶴ヶ城(大分県大分市)救援に向かい、戸次川(へつぎがわ)の戦いで、島津家久(しまづいえひさ)軍に敗れ逃(に)げ帰ってしまいました。

勢いに乗る島津軍は、大友氏本拠の豊後府内(ふない)を攻略(こうりゃく)し、丹生島城に迫ります。だが、城に籠城(ろうじょう)していた宗麟は、ポルトガルから入手した大砲(たいほう)「国崩し(フランキ砲)」を敵陣に打ち込み、多くの被害を与えました。天嶮(てんけん)(自然が険(けわ)しくなっている所)に守られたうえ、大砲までもが配備されたことを知り、島津軍は撤退します。しかし、城下は跡形(あとかた)もなくすっかり焼けてしまい、見るも無残な姿(すがた)となったのです。豊後国は島津氏に踏(ふ)みにじられ、大友家は滅亡寸前まで追い詰(つ)められたのです。

フランキ砲、国崩し
ポルトガル人宣教師から2門(10門とも)のフランキ砲を輸入し、その威力から「国崩し」と名付けられました。本来は艦砲(かんほう)用です。臼杵公園にあるレプリカです

天正15年、豊臣軍10万が九州に上陸。島津氏は降伏(こうふく)し、大友家は救われることになりますが、宗麟は病にかかり、同年津久見(つくみ)の隠居地で58歳の生涯(しょうがい)を閉(と)じました。

大友氏の居城・臼杵城

臼杵川河口に浮かぶ丹生島は、東西420m×南北100mの、断崖絶壁(だんがいぜっぺき)(まるで壁(かべ)のように切り立った崖(がけ)のことです)に囲(かこ)まれた地形です。干潮(かんちょう)時のみ砂洲(さす)(海岸線をやや離(はな)れて、海側に細長く砂礫(されき)が堆積(たいせき)してできた地形のことです)が西側に出現し、ほんの少しばかりの時間だけ地続きとなる、まさに天然の要害でした。明治以降(いこう)(う)め立てが進み、現在は、周囲(しゅうい)に町並(な)みが広がるため、小高い丘(おか)に築かれた平山城のようです。しかし、城の西側から南側にかけては、今も岩盤(がんばん)の断崖が露出(ろしゅつ)しており、要害堅固(ようがいけんご)(外敵からの攻撃(こうげき)を防(ふせ)ぎやすい険しい地勢で、備(そな)えがしっかりしていることです)の様子を伝えています。

豊後之内臼杵之城絵図
豊後之内臼杵之城絵図(国立公文書館蔵)正保城絵図です。陸地から突(つ)き出した島に位置し、自然の断崖を塁線(るいせん)として巧(たく)みに取り込んだ様子が良く解ります

永禄4年(1561)、北九州において毛利氏に敗れた大友義鎮(宗麟)が、この地に本格的築城を開始。ルイス・フロイスの記録によると、臼杵の地は府内に次ぐキリシタン布教(ふきょう)の根拠地となり、会堂(かいどう)(集会をするための建物です)修練所(しゅうれんじょ)(心身を鍛(きた)える場所です)大聖堂(だいせいどう)(キリスト教の宗教建築(けんちく)です)が建てられ、城内に礼拝堂(れいはいどう)(礼拝を行う建物です)までもが設けられたと言います。

宗麟の死後、嫡子(ちゃくし)義統も朝鮮出兵で失敗し改易(かいえき)(取り潰(つぶ)されることです)され領地を失います。慶長2年(1597)、臼杵城主となった太田一吉(おおたかずよし)が、大幅(おおはば)な改修(かいしゅう)・拡張(かくちょう)を実施(じっし)。城下町を復興(ふっこう)し、新たに三の丸を築き、大手を移(うつ)し、石垣(いしがき)を築き上げ、現在の基礎(きそ)を築きました。関ヶ原合戦後城主となった稲葉貞通(いなばさだみち)と嫡子・典通(のりみち)の2代で、大手枡形(ますがた)や三の丸を整備(せいび)、石垣修復(しゅうふく)も実施し、今ある城が完成を見ました。

臼杵城
現在、周囲は埋め立てられ、陸地の中の小山に築かれた城のように見えます。古橋手前から見た姿で、道は古橋門枡形を通り、つづらに折れて坂道を上がり大門櫓へと続いています

城は、丹生島西側の先端(せんたん)部に本丸を置き、空堀(からぼり)を挟んで東側に二の丸が設けられていました。本丸は、さらに南北に分離され、北側に三重天守・本丸御殿等の主要施設があったのです。南側は卯寅口(うとのぐち)搦手(からめて)口)で、自然地形を利用した船着場が設けられており、万が一の際(さい)の脱出(だっしゅつ)口を兼(か)ねていたようです。

臼杵城、畳櫓、卯寅口門脇櫓
現存する畳櫓(左)と卯寅口門脇櫓(右)は、共に総二階造り(上下階の平面が同規模)の重箱櫓と呼ばれる形状をした特徴的な二重櫓です

城跡には、畳(たたみ)(やぐら)・卯寅口門脇(わき)櫓が現存し、大門櫓が復元されています。古橋を渡(わた)り古橋門枡形を通り中枢(ちゅうすう)部へ至(いた)る通路は複雑(ふくざつ)で、つづらに折れて坂道を上がり、二の丸大手となる大門櫓へと続いています。この複雑な通路の前に、大手門が構(かま)えられていました。古橋門枡形周辺の整備が進み、南西部の堀(ほり)の一部を掘削(くっさく)したり、畳櫓脇から中ノ門へと続く土塀(どべい)が復元されたりしています。また、天守台の石垣の整備や、二の丸南側に連続する櫓台も整備され、城跡としての景観が戻(もど)りつつあります。

臼杵城、義太夫前櫓跡
西より義太夫(ぎだゆう)前櫓跡を見た景観です。写真右側下は、現在は市街地が広がっていますが、往時は海が入り込んでいました。現在も、斜面は急峻で、要害であっ往時の姿を留めています

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※桝形(ますがた)
門の内側や外側に、攻め寄せてくる敵(てき)が真っすぐ進めないようにするために設けた方形(四角形)の空いた場所のことです。近世の城では、手前に高麗(こうらい)門、奥(おく)に櫓門が造られるようになります。

※大手(おおて)
城の正面、表側にあたる入口のことです。「追手」も同じ意味です。

※空堀(からぼり)
水の無い堀のことです。山城で、多く用いられました。近世城郭においても、重要な場所は空堀が採用(さいよう)されています。堀底は、通路として利用されることが多く認(みと)められます。

※搦手(からめて)
城の背面(はいめん)、裏口(うらぐち)のことです。通常は目立たないようにしてあります。

※土塀(どべい)
(ほね)組みのあるものと、ないものとがありますが、どちらも小さな屋根を葺(ふ)き、用途(ようと)に応(おう)じて狭間(さま)が切られました。骨組みのある土塀は、木材で骨組みを造って土壁の要領で小舞(こまい)(竹の格子(こうし))を編(あ)んでその上に壁土を塗(ぬ)って仕上げています。こうした土塀は控(ひか)え柱や控え塀を伴(ともな)うことが多く、独立(どくりつ)していませんでした。骨組みのない土塀は、壁土の中に使用済(ず)みの瓦(かわら)や小石、砂利(じゃり)などを入れて固めたものが主流です。「練塀(ねりべい)」や「太鼓塀(たいこべい)」とも呼ばれました。

次回は「九州の城2」です。

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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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