明石在住20年!現地レポーターにしか語れない!明石城のみどころ5選

日本全国には、お城が大好きで、日々SNSなどでお城の情報を発信し続けている方が、たくさんいらっしゃいます。今回は、明石在住歴20年!同じお城好きの仲間たちと、「城めぐり関西オフ会」を定期的に催し、関西地方を中心にお城めぐりをする傍ら、明石の城攻めブログを公開されている明石則実さんが、築城400年を迎えた明石城の見どころを、5つのポイントにしてご紹介。



2019年に築城400年を迎えた明石城は、昔から広く市民の憩いの場としても親しまれています。そこで今回は、明石在住歴20年の地元民だからこそお伝えできる、明石城の「ぜひ見てほしい!」見どころを紹介させていただきます。

明石駅、明石城
JR明石駅ホーム上から見た明石城。城壁改修工事が行われており、2019年3月には完了予定(2019年1月撮影)

「超エリート大名」小笠原忠真が築城した明石城

豊臣氏滅亡後の元和5年(1619)に徳川幕府2代将軍徳川秀忠の肝いりで起工し、たった一年足らずでほぼ完成しました。初代城主は小笠原忠政(おがさわらただまさ)、後の忠真(ただざね)です。徳川家康と織田信長の血統を受け継いだ超エリート大名で、将軍秀忠から「忠」の偏諱を頂くほど将来を嘱望されており、さらには大坂夏の陣での活躍で家康から「わが鬼孫なり」と称賛されたほどでした。

その功績により松本8万石から明石10万石という交通の要衝に配されました。後年には普請事業で幕府に尽力したということで加増を受け、小倉(福岡県北九州市)15万石へ移封されています。当時の明石は、東西に西国街道が走り、北へ向かえば丹波や但馬へ達し、南には淡路島を眼の前にするという戦略上にも重要な場所だったのです。

同じく元和年間(1615~1624年)には、尼崎城(兵庫県尼崎市)、淀城(京都府京都市)が築城され、高槻城(大阪府高槻市)が大改修されていますから、これが最後の天下普請だということになります。これら一連の天下普請の城は、徳川氏の西の一大拠点である大坂城を守るための防衛ラインを構築するためだったともいわれています。

現在でも石垣には当時の刻印が見られますが、大名たちのものではなく、町人や職人たちが使った刻印や符号が見受けられます。明石城は、全国の大名を大動員したわけではなく、江戸幕府と明石藩の折半で費用を出し合った町人普請という形だったのです。現代でいえば、民間企業によって施工された城だったのです。

明石城最大の特徴は、平城のように見えながらも、実は山城の要素もあるということ。西へ伸びる台地の端に縄張りし、麓の平地には藩主屋敷と武家屋敷群が存在していました。そして台地の上には大量の石垣で固められた堅固な主郭部が存在しています。台地と繋がる北側は、唯一城の弱点ともいえる場所ですが、ここに「剛の池」や「桜堀」とともに、深い堀切を備えて遮断しています。東播磨地域の統治のシンボル的存在であると同時に、幕府の重要な防衛拠点でもあったわけです。

明石城の完成後には、明石の港が川砂で埋まってしまうために明石浜築港の改修工事が行われました。小笠原忠政みずから道具を持って砂を掻き揚げ、陣頭で働きながら明石の町づくりを推進したのです。こういった努力もあって、明石は「宝の船入り」と称されるほど繁栄しました。その礎を築いたのが初代城主の小笠原忠政だったのです。

小笠原家の後、明石城主はたびたび変わりましたが、天和2年(1682)に松平忠明(まつだいらただあきら)が入封して以降、松平家が明治維新まで続くことになりました。

明石城、中堀、石垣、土塁
現在の中堀。門付近のみに石垣が使用され、それ以外は土塁である

現在、主に見学されている明石城の姿は中堀に囲まれた内城部のみですが、元来は外堀もあり、東は現在の神戸大学附属小学校、南は魚の棚商店街、西は明石川付近にまで及ぶ広大なものだったようです。東西約800メートル、南北約900メートルの広さで、東京ドームに例えるなら15個分がすっぽり収まる面積になります。まさに西国を抑えるための大城郭だったことが伺い知れますね。

見どころ① 太鼓門

太鼓門はまさに明石城の正面玄関ともいえる門で、定ノ門と能ノ門の二つの城門で構成されています。
門を入っても向こう側が全く見えず、枡形(門に侵入した敵が容易に突破できないように造った方形の空間)が二つ合わさったような特異な形をしています。非常に頑丈で厳重そのもの。さすがは要衝を任された小笠原忠政の居城だという感じですね。

明石城、太鼓門内部
太鼓門内部。鍵状の造りになっており、敵が容易に城内へ侵入できないようになっている

見どころ② 巽櫓と坤櫓

明石城を代表する建造物です。かつて本丸には三重櫓が計四基存在していましたが、現在は東の巽(たつみ)櫓と、西側の坤(ひつじさる)櫓が残るのみ。日本に十二基しか現存していない三重櫓のうちのふたつが明石城に残り、ともに国の重要文化財に指定されています。

東側の巽櫓は、明石城から南西約1kmの位置にあった船上(ふなげ)城(兵庫県明石市)から移築されたものだと言われていて、天守だったという説もあります。寛永年間(1624~1645年)に消失しましたが、現在のものは再建されたもの。阪神淡路大震災後に、曳家工法を使って修復されました。

そして西側の坤櫓は、江戸期伏見城(京都府京都市)の遺構であるといわれており、この櫓が実質的に天守の役割を果たしていたそうです。同じく伏見城の遺構としては居屋敷曲輪(いやしきぐるわ)に切手門(きりてもん)がありましたが、現在は明石城の西にある月照寺(げっしょうじ)の山門として移築されています。

二つの櫓の内部はかなりすごいです。重厚さもさることながら、「これでもか!」と言わんばかりの量の木材!補強に使われている斜めの筋交いなども、やりすぎ感があるほどです。また、横に伸びる梁の太さもかなりのもので、材料の原木をそのまま使っています。見た目は武骨でも、かなり頑丈ですね。

この二つの櫓は、3~11月までの土・日曜と祝日、交互に一般公開されていますので、ぜひ見学してもらいたいところです。

【坤櫓と巽櫓の内部公開日】
坤櫓 3月、5月、9月、11月の土日祝(10〜16時)
巽櫓 4月、10月の土日曜と土日祝(10〜16時)

巽櫓、坤櫓、明石城
全周に窓があり、わずかに大きいのが坤櫓(写真左)。城の内側方向に窓がない櫓が巽櫓(写真右)。似ているようで大きさや形状が異なる

見どころ ③天守台

明石城には、熊本城(熊本県熊本市)と同規模の天守台が存在しています。仮に天守を建てた場合、五層にもなる規模でしたが、築城当初から天守が建てられる計画はありませんでした。ただし、一説によれば九州の中津城(大分県中津市)天守を移築しようとする計画もあったとか。天守台からは明石海峡から、遠く淡路島まで見渡せる見晴らしのよさです。

明石城、天守台
天守台より淡路島方向を望む。行きかう船が間近に見えたであろう江戸時代に思いを馳せる

明石城、天守台
天守台。一説によれば大砲の目標にならないために、あえて天守を築かなかったとか

④ 明石城の石垣

明石城に来た際には、ぜひ石垣に注目してみてください。江戸時代初期に築城された明石城に使われているのは、石垣の隅石に関ヶ原の戦い後に完成した「算木積」という工法。築城時には既に廃城となっていた船下城、三木(みき)城(兵庫県三木市)、高砂(たかさご)城(兵庫県高砂市)などで使われていた花崗岩が多く用いられています。また後年の補修補強の際には、近隣の高砂で採掘される凝灰岩(竜山石)も使われていました。加工しやすく熱にも強いので、補修にはぴったりの石材だったのです。時代によって石垣の色の差がはっきりとありますし、そういうところを見るととても面白いですよ。ちなみに、西の丸西側の石垣が、色の差がよくわかるためオススメです。

石垣、明石城
従来の石垣(花崗岩)と補強のための修築石垣(凝灰岩)との境目

見どころ⑤ 剛ノ池

剛ノ池(こうのいけ)は、明石城のちょうど北に位置します(別名は鴻ノ池)。水堀へ水を供給するための水源で、城の北側を防衛するための天然の要害でもありました。現在ではボート遊びや水辺の散策など市民の憩いの場として親しまれています。兵庫県立明石公園として、兵庫県立甲山森林公園と神戸市立須磨離宮公園と共に、「日本の都市公園100選」にも選ばれています。

明石城、剛ノ池、鴻ノ池
現在の剛ノ池。桜が見られる4月初旬のハイシーズンには市民や観光客でにぎわう

2019年は明石城関連のイベントも多く催されます。この機会にぜひ明石城を訪れてみてはどうでしょうか。
関連イベントは「明石城築城400周年」公式ホームページをチェック!

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明石城(明石公園)
住所:兵庫県明石市明石公園1-27
電話番号
 ・史跡について:078-918-5629(明石市 文化振興課 文化財係)
 ・公園について:078-912-7600((公財)兵庫県園芸・公園協会)
開館時間・休館日:公園内は散策自由。なお、両櫓は特定日のみ一般公開
アクセス:JR山陽本線「明石駅」、山陽電鉄本線「山陽明石駅」より徒歩5分

執筆・写真/明石則実(あかしのりざね)
オフ会主催やブログ「明石の城攻め日記。たまに柴犬」などで、関西のお城情報を発信中。史跡を巡るかたわら、歴史系ライターとしても活動中。

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