新発見!織豊系の陣!戦国の戦いを生々しく蘇らせる三保山城(大分県)

以前、記事「隠れたお城を見つけ出せ! 大分県で一番お城があることを発見した中津市のお話」で実際に行った城館調査をもとに、隠れたお城の探し方を伝授してくれた中津市教育委員会の浦井さん。今回はその調査の中で発見した「とんでもないお城」について解説してくれます。

こんにちは、中津市教育委員会の浦井です。前回の記事では中津市教育委員会が行った城館調査についてご紹介しましたが、今回紹介するのは地元の方にも忘れられていたお城です。中心部は東西80m×南北60m程の小さなお城…。でも、このお城がとんでもない発見でした。
▼前回の記事「隠れたお城を見つけ出せ! 大分県で一番お城があることを発見した中津市のお話」はこちらをご覧ください!

新発見のお城は、どんなお城?

中津市歴史博物館,城びと,三保山城

山の名前をとって「三保山城」としたそのお城は、標高178mの三保山にあり、主郭部と鞍部(あんぶ。山の尾根の低くなっている部分)を経た西側尾根筋に分かれています。
主郭は北・西・東の数カ所を屈曲させる低い土塁で囲んでいます。東辺には長さ約15mにわたり、10数個の石を並べた石垣面があり、西辺は喰い違い虎口を形成しています。
一方、主郭の南側は土塁がなく、閉塞しない特徴があります。そして、その主郭から西の尾根筋に土塁を長さ650mにわたり伸ばしています。

中津市歴史博物館,城びと,三保山城

これらの特徴から、三保山城は豊臣秀吉が九州平定のため家臣団を豊前豊後に派遣した天正14年(1586)以降に構築された織豊系の城郭(陣)と考えられています。

「なぜこの人のお墓がここにある?」お城発見のきっかけは一基の墓

中津市歴史博物館,城びと,三保山城

お城を発見するきっかけとなったのは、訪れる人の少ない山中にぽつんとある一基のお墓です。地元で「加来どんの墓」と呼ばれるお墓で、黒田氏側の土豪・秣(まくさ)氏に討ち取られた賀来統直(かくむねなお)という人物のお墓です。実はこの賀来統直、豊前国六郡が黒田官兵衛に与えられたあとに起こった「豊前一揆」を起こした土豪(どごう。その土地の豪族)の一人でした。
「そんな人の墓がどうしてこんな山中にあるのだろう」
いぶかしく思った私は、念のため三保山の山頂に登ってみることにしました。そこで偶然発見できたのが三保山城だったのです。

「豊前一揆」ってどういう一揆?中津市歴史博物館,城びと,三保山城

豊前一揆勃発時の一揆方と黒田方の城

豊臣秀吉は九州平定後、九州国分(くにわけ。大名に領土を配分すること)を行い、豊前国六郡を黒田官兵衛に与えました。黒田氏は領内で検地を実施しますが、それに反発した豊前の土豪らが武力蜂起しました。これを「豊前一揆」といいます。
実は、黒田官兵衛は「豊前一揆」が起きる少し前に肥後国で発生した一揆の平定に協力するため、肥後国を目指して出発していました。その官兵衛が留守の隙をついて豊前各地で一揆の火の手が上がったのが「豊前一揆」です。

留守を預かる黒田長政(黒田官兵衛の息子)は一揆の鎮圧に乗り出し、緒戦の戦いには勝利しましたが、有力土豪・宇都宮(城井)鎮房(しげふさ)に敗れてしまいます。しかしその後、中国地方の毛利・吉川氏の援軍1万と共に鎮圧を進め、最後に残ったのが下毛郡(現中津市)の賀来統直(大幡城)や福島氏(田丸城)、犬丸氏(犬丸城)などの土豪達でした。

三保山城の発見は、何がどうすごい?

三保山城,中津市歴史博物館

ここでいったん話は三保山城に戻ります。
三保山城は北側を警戒するように土塁を構築する特徴があり、三保山北の尾根続きの丘陵先端には織豊系の城郭といわれている上伊藤田(かみいどうだ)城、さらに西側には大規模な横堀をもつ北平城などが立地しています。これらのお城はいずれも北を警戒するように防御遺構を築いていたという共通点があります。
そこまで警戒した「北」には何があるのか…。
実はこれらの城の北側には一揆を起こした土豪の拠点があったのです。

三保山城,中津市歴史博物館

特に三保山城などは土豪の拠点を見下ろす位置に築かれており、そのことから黒田・豊臣鎮圧軍が築いたものである可能性が浮上してきました。一揆軍に近い位置にある上伊藤田城などは前線基地(付城)と思われ、これらのお城の背後に陣取る三保山城は鎮圧軍の「本陣」「本営」である可能性が高くなったのです!
これまで一揆軍と鎮圧軍による攻防の様子は、古文書・古記録などの文字資料により知られていましたが、鎮圧軍が築いたお城の具体像ははっきりしていませんでした。しかし三保山城の発見により、これまで点々と存在していた小さなお城が線でつながり、「一揆軍VS鎮圧軍」の対決の構図が立体的にみえてきたのです。

一揆軍を包囲する布陣はどこまでつながる?

中津市歴史博物館,城びと,三保山城
清水村山城縄張り図(浦井直幸「清水村山城跡」『史学論叢』第50号2020より)

このように三保山城の発見で一揆軍を南から包囲する布陣が浮かんできましたが、現在はその包囲網はもう少し広がりを見せることがわかってきています。
三保山の東にある清水村山城(宇佐市)も関連城郭とされ、南北300mの尾根上を堀切・土塁でいくつも分断しています。大軍の分駐を示す可能性があり、背骨のように城郭の西塁線を貫く土塁は一揆側を向いています。このお城も鎮圧軍の拠点の一つと考えられています。このようなお城がどこまで存在するのかその広がりについて引き続き調査をしていきたいと思っています。

おわりに

一つのお城の発見が、お城とお城をつなぐ線を生み、地域の歴史をより豊かに彩ります。偶然発見された三保山城は、攻め込んできた鎮圧軍と自分の土地を必死に守る土豪たちの攻防を生々しく蘇らせてくれました。
今回触れられませんでしたが、石塁で有名な長岩城も一揆を起こした野仲氏のお城ですが、その鎮圧のために黒田軍が築いたお城は見つかっていません。今後も新しいお城の発見により、埋もれていた地域の歴史がつまびらかになっていくことでしょう。

【参考文献】
宮武正登「新発見の豊臣系陣跡の考察—豊前国人一揆攻防戦の新たな証左として—」『中津市の中近世城館 各節・総括編』中津市文化財調査報告第107集2022

※中津市歴史博物館では三保山城のことなどを紹介する企画展「土豪の城-豊前武士と戦国動乱-」を11月6日(日)まで開催しています(企画展図録は中津市歴史博物館にて販売中(通販可))

※第9回九州城郭研究大会(in中津)テーマ「侵攻と抵抗—城郭に見る『天下統一』の様相—」が11月6日(日)開催されます。詳細は中津市歴史博物館URL(http://nakahaku.jp/)をご覧ください。参加ご希望の方は下記アドレスへお名前・ご住所・連絡先をお送りください(先着140名)。
メールアドレス:hkjyoukaku2022@gmail.com
土豪の城

執筆・画像/中津市歴史博物館 浦井直幸

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