2026/04/06
城をめぐる最新研究|小和田哲男 城をめぐる最新研究 第9回「大御所時代の駿府城天守は環立式だった」
お城や歴史の最新研究にスポットライトを当てる小和田哲男先生の連載講座第9回のテーマは、駿府城の天守です。絵図の発見により、家康大御所時代の天守の姿が解明されはじめ、さらに、従来の天守の構造上類型に当てはまらない、あらたな類型の可能性が示唆されています。
現れた慶長期の天守台
徳川家康が将軍職を子秀忠に譲り、大御所となって駿府城に入ったが、場所は家康の5ヵ国時代の駿府城と同じだったことが近年の発掘調査からわかってきた。5ヵ国時代、すなわち天正期の天守台のすぐ近くから大御所時代、すなわち慶長期の天守台が姿を現したのである。

駿府城 慶長期天守台石垣
現在、静岡市では、その天正期と慶長期の二つの天守台をどのように保存し、見せるのかの検討が進められている。
発掘調査によって、大御所時代の天守台の大きさがはっきりしてきた。何と、現存部の上端で、約68m×61mという大きさで、これは江戸城の天守台より大きく、わが国最大の天守台ということになる。問題は、そこに、どのような天守が建てられていたかである。天守が五重七階だったことは『当代記』や『慶長日記』などの記述によって明らかであった。ここでは『当代記』の記述を紹介する。なお、天守については六重七階説、七重六階説もある。
元段(地階・穴蔵) 10間×12間
二之段(1階) 10間×12間
三之段(2階) 10間×12間
四之段(3階) 8間×10間
五之段(4階) 6間×8間
六之段(5階) 5間×6間
物見之段(6階) 4間×5間
このように、天守の形態としては5階までが層塔型で、6階に望楼型の物見之段が載るというやや特異な天守だったことがうかがわれる。ただ、外観が描かれた絵画史料としては日光東照宮所蔵の「東照社縁起絵巻」くらいしかなく、広大な天守台に、五重七階の天守がどのように建っていたのかは長らく謎であった。
解明され始めた天守の姿
ところが、最近、その謎が解明されはじめた。姫路藩主酒井家に伝来した「駿府御城内絵図」が山梨県内で発見されたのである。そのニュースを見て、私は名誉顧問を務めている静岡市歴史博物館の学芸員に「その絵図を借り出して、博物館で展示してほしい」と要望したところ、この絵図の持ち主が「市に譲ってもいい」という話になり、話がトントン拍子に進んで市が購入し、今年1月から2月にかけて静岡市歴史博物館開館3周年を記念し、初公開されることになった。
これまでにも駿府城を描いた絵図に天守台の位置などが描かれたものはあったが、天守台に天守がどのような形で建てられていたのかの平面図にあたるものはなかった。それが、今回のこの「駿府御城内絵図」に、建物の配置が描かれていて、前述の五重七階の天守が天守台の中央に建てられていたことがわかったのである。

「駿府御城内絵図」天守台部分
新たな類型の可能性
実は、それだけではなかった。この絵図により、天守台の四隅に隅櫓が建てられ、それを渡櫓でつないでいたことがわかった。これを仮称ではあるが環立式とよんでいる。従来、天守は城の概説書などに紹介されているように、⑴独立式、⑵連結式、⑶複合式、⑷複合連結式、⑸連立式の5つが「天守の構成上の5類型」とされていたが、もう一つ、環立式というものが想定されることになったわけである。

執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会 理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程満期退学。1985年、文学博士(早稲田大学)。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)、『地図でめぐる日本の城』(帝国書院、2023)ほか多数









