2025/11/26
城をめぐる最新研究|小和田哲男 城をめぐる最新研究 第7回「北条流築城術を導入した豊臣秀吉」
多くの城攻めを経験した秀吉が、力で攻め落とせなかった小田原城から学んだ「北条流築城術」は「惣構」だけではなかった? お城や歴史の最新研究にスポットライトを当てる小和田哲男先生の連載講座「城をめぐる最新研究」第7回は、秀吉が取り入れた北条流築城術についてです。
力で攻め落とせなかった小田原城
ある武将が敵の城を攻めたとき、容易に落とすことができなかった場合、「なぜ、簡単に落とせないのだろう」と考え、防備の勝れたところを学ぶことになる。こうした学習の積み重ねによって、築城術が進化していったわけであるが、城攻めをいくつも経験した豊臣秀吉も、そうした学習の積み重ねを活かした一人だった。
天正18年(1590)、秀吉は21万とも22万ともいう大軍を動員して相模の北条氏の拠る小田原城を攻めたが、容易に落とすことができなかった。対の城として、小田原城を見下ろす笠懸山に城を築いて攻めたものの3ヵ月の城攻めの結果、最終的には軍師の黒田官兵衛を使って和平交渉を進め、講和開城となった。結局、力攻めでは落とせなかったことになる。
それは、小田原城が、惣構えの城だったからである。惣構えは総構えとも書かれる。城だけでなく、城下町まで包みこんだ総延長9キロメートルにおよぶ堀と土塁によって守りが固められていた。この戦いで、秀吉は惣構えの効用を学んだわけである。
そこで秀吉は、早くも翌天正19年(1591)閏正月早々から京都の町を堀と土塁ですっぽり囲む御土居の構築にかかっている。当時の記録によると、「京総堀」あるいは「京之惣廻(そうめぐり)土居」や「京廻(めぐり)の総構」などと出てくる。

御土居復元図
御土居は、この地図のように、北は鷹峯から鴨川の流れに沿って東へ下り、東は鴨川の西岸に築かれ、南は屈曲しながら東寺を巻きこむ形で北に折れ、西は、紙屋川に沿う形で築かれている。総延長は22.5キロメートルにおよぶので、小田原城の惣構のほぼ倍の規模となっていた。この御土居によって囲まれた部分が、以後、京の町として意識され、洛中とよばれることになり、御土居の外が洛外とよばれることになった。
この御土居には、ここに示した地図にも書きこんだように、鞍馬口・大原口・荒神口・三条口(粟田口)といったいくつかの口があり、洛中と洛外をつないでいる。
秀吉が取り込んだ御土居以外の北条流築城術の発見
ところで、これまでは、秀吉が北条流築城術として取り込んだのがこの小田原城の惣構えから学んだ御土居だけだと考えられていたが、つい最近、発掘調査によって、それだけではなかったことが明らかになってきた。何と、御土居の南西部にあたる京都市下京区朱雀(すざく)分木町の京都市中央卸売(おろしうり)市場の発掘現場から障子堀が見つかったのである。

リーフレット京都 No.431 (2024年12月)写真1 障子堀をもつ御土居の堀(2023年度調査2区北から) 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所提供
堀底に畝(うね)状の掘り残しのある障子堀はこれも北条流築城術の一つとして有名で、一番有名なのは小田原城の支城山中城の障子堀で、もちろん、本城である小田原城も障子堀で守られており、秀吉軍が山中城や小田原城を攻めたとき、障子堀の効用にも気がついたと思われる。
ただ、全くの模倣かというとそうではなく若干の違いもみられる。北条氏の障子堀は、江戸時代の軍学者山鹿素行が著わした『兵法神武雄備集』には、
水下に見へさるやうに幾筋も十文字にうねを切かきかき仕置、広さ或は一尺、或は弐尺斗にも、乃至それよりほそく共、竪横に仕置へし。
と記されていて、十文字に畝を掘り残した形としている。今回、京都で発掘調査の結果出てきたのは、十文字にはなっていない。北条流築城術を取り入れながら、アレンジを加えていたことがうかがわれる。

執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会 理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程満期退学。1985年、文学博士(早稲田大学)。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)、『地図でめぐる日本の城』(帝国書院、2023)ほか多数









