2025/01/08
城をめぐる最新研究|小和田哲男 城をめぐる最新研究 第4回「国史跡となった姉小路氏城跡」
お城や歴史の最新研究にスポットライトを当てる小和田哲男先生の連載講座「城をめぐる最新研究」。第4回は、昨年国史跡指定された姉小路氏城跡についてです。姉小路氏城を構成するお城の一つ、小島城は「土の城」から「石の城」への変化を追うことのできる城でした。
姉小路氏とは
令和6年(2024)2月21日の官報告示で、飛驒国の姉小路氏(あねがこうじし)城跡が国の史跡に指定された。古川城跡・小島城跡・野口城跡・向小島(むかいこじま)城跡・小鷹利(こたかり)城跡の5つで、いずれも岐阜県飛騨市に所在する中世山城である。
姉小路氏は、その名からも連想されるように、京都の公家の出である。藤原北家小一条流といわれ、藤原師尹(もろただ)の子済時(なりとき)が姉小路氏を称したのにはじまる。建武新政のとき、家綱が飛驒国司に任じられ、飛驒国北部吉城(よしき)郡の中枢古川盆地に居住しながら、代々公卿(くぎょう)にも列し、京都との間を往来していた。国司から戦国大名となった家として、「三国司」などとよばれている。伊勢の北畠氏、土佐の一条氏、そして、この飛驒の姉小路氏である。
姉小路氏の変遷
やがて、姉小路氏は、古川氏・小島氏・向(むかい)氏の3家に分かれ、古川盆地内にそれぞれ拠点をもった。応永18年(1411)には、家綱の弟とも甥ともいわれる第4代飛驒国司尹綱(ただつな)が南朝方として挙兵するということがあった。応永飛驒の乱であるが、それ以前から古川・小島・向の3家に分裂していたといわれている。
戦国時代の飛驒は、北部をこの姉小路氏3家が支配し、高原郷を江馬氏が支配し、飛驒南部を三木(みつき)氏が支配する形で推移した。三木氏は飛驒守護京極氏の被官で、力をつけ、益田(ました)郡から高山盆地、さらに古川盆地に進出し、三木良頼のとき、姉小路家の内紛に乗じて古川家を乗っ取り、名跡を継承し、ついに永禄2年(1559)には良頼と子の三木自綱(よりつな)が姉小路氏を名乗るようになった。
「土の城」と「石の城」二つの顔を持つ小島城
今回、国史跡に指定された姉小路氏5城の一つ小島城(飛騨市古川町杉崎)は、『飛州志』に「国司姉小路家代々居住ノ本城也」とある。立地が、高原郷と小島郷を結ぶ神原峠の峠道が古川盆地に開ける形の交通の要衝に位置しており、まさに、高原郷からの敵の侵入を防ぐ絶好の場所であった。
小島城 主郭
小島城 主郭の櫓台
城は、通称城山の山頂に主郭を配し、山の尾根筋を使った連郭式の縄張で、基本、土塁や堀切が主体の「土の城」である。姉小路氏、すなわち三木氏の時代は「土の城」だったと思われる。
ところが、主郭の南側にみごとな石垣も積まれている。
小島城 石垣
「土の城」と「石の城」の両方をみることができるのである。この点について、中井均・内堀信雄編『東海の名城を歩く 岐阜編』で「小島城」を執筆された大下永氏は、「発掘調査によって、埋もれていた石垣が確認された。主郭の石垣は南側斜面のみ確認できるため、南側の領民に見せていたと想定される。これらの石垣は、巨大な石材を使用し、裏込め石をともなうなど、高度な技術によって積まれている。これは“土造り”を基本とする旧来の飛驒の山城には見られないものである。もともと小島氏が使用していた山城のうち、限定された場所のみ金森氏が改修し、統一政権の威光を示したものと考えられる」と、三木氏の後に入った金森氏の手が入っているのではないかと興味深い指摘をしている。
このように、小島城は、「土の城」から「石の城」への変化を追うことのできる城としても注目されるところである。
向小島城 全景
なお、向氏の向小島城(飛騨市古川町信包(のぶか)・笹ヶ洞(ささがほら))も比高が約130メートルの山城で、横堀と連続した竪堀がセットで構築される畝状空堀群の城として知られている。

執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会 理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程満期退学。1985年、文学博士(早稲田大学)。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)、『地図でめぐる日本の城』(帝国書院、2023)ほか多数









