「鎌倉城は実在したのか?」新視点で「鎌倉城」の謎に迫る なぜ頼朝は鎌倉に幕府を開いたのか

日本画家で城郭研究家の大竹正芳さんは鎌倉生まれの鎌倉育ち。鎌倉のお城について20数年研究されていらっしゃいます。今回から、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で注目を集める鎌倉のお城について、鎌倉市教育委員会等と一緒に進めてきた調査を主軸に、大竹さんの新しい視点で語っていただく短期連載をはじめます。初回のテーマは「なぜ源頼朝は鎌倉に幕府を開いたのか」。



「鎌倉城」を捉え直す

 2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。三谷幸喜さんが満を持して制作された本作品はエンターテインメント性が高く、観る者をワクワクさせてくれると大変好評です。おかげで鎌倉時代という、一般の人にはなじみの薄いと思われる時代に人々の興味が向き始めています。城びとの記事という事で私が20数年関わっている鎌倉のお城の事をお話いたしましょう。皆さんは「鎌倉城」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?「鎌倉城」は、源頼朝の居城のことですが、少し耳慣れない言葉かもしれません。まずは、「鎌倉城」をご存じの方もご存じない方も、話を進めるうえで、皆さんに是非、目を通していただきたいのが、城びと連載記事「理文先生のお城がっこう|歴史編 第9回 鎌倉城と切通し」https://shirobito.jp/article/643)と「超入門!お城セミナー第121回【歴史】源頼朝が幕府を開いた鎌倉が「お城」だったって本当⁉」https://shirobito.jp/article/1472)です。「理文先生のお城がっこう」では従来から言われてきた説が、「お城セミナー」では研究者の間で現在どのように論じられているかが説明されており、これらの記事を読めば「鎌倉城」の基本的な知識がつきます。
さらに、最近は文献史学、考古学、縄張研究で従来の定説である城塞都市としての「鎌倉城」の否定的な意見が主流になってきています。今回は今まで鎌倉市教育委員会や他の団体と一緒に進めてきた調査を主軸に、私なりに新しい視点で「鎌倉城」についてご紹介したいと思っています。

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鎌倉の調査風景。写真は戦国時代の玉縄城(神奈川県鎌倉市)ですが、鎌倉城も全く同じ方法で現地測量しました

鎌倉の山稜部の発掘成果からわかったこと

では実際のところ「鎌倉城」とはどのような存在だったのでしょうか。
従来の説では鎌倉は三方を山に囲まれ、前面に海があり、中に入るには7つの「切通し(山などを切りひらいて通した道)」を通らなくてはならないと言われてきました。実は、20世紀末から21世紀初頭にかけて鎌倉はユネスコの世界遺産登録を目指していました。すでに古都として京都、奈良が登録されていたので、オリジナリティを出すため『鎌倉市史』(鎌倉市史編纂委員会編 吉川弘文館)にも書かれている城塞都市鎌倉で当初登録を目指そうとしました。ところが100ケ所以上の試掘調査を行っても、7つの切通し付近からは鎌倉時代中期以降の出土品しか出てきませんでした。源頼朝や北条義時が活躍していた時代の遺物がほとんど見つからなかったのです。
また遺構も死者を火葬した荼毘所や埋葬施設、石切り場といった軍事施設とは全く無関係なものが多く、考古学の研究者の間で「「城塞都市」と言い切って良いものか」という疑問が出てきました。さらに文献の解釈が進み、結果として、前述した城びとの「超入門!お城セミナー」の記事にあるような否定的な考え方に至ったわけです。では「鎌倉城」は実在しなかったのでしょうか。
 
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覚園寺(かくおんじ)前からハイキングコースに登る山道に残る切通し。鎌倉には七切通しだけではなく、いたるところに無名の切通しが残されています

答えは――「否!」。鎌倉の山々を実際に歩き、熟知している人々の中で、鎌倉の防御性を否定している人を私は知りません。今までに考えられていたものとは何か別のものがあったと思われます。では、それは一体何なのか?本連載では、その実像を探っていきたいと思います。そのためには、「鎌倉に幕府ができる前の歴史」を見直さなくてはなりません。そこに手がかりがあるはずです。

武士の台頭から「鎌倉幕府」までの歴史

平安京を築き上げた桓武天皇のひ孫に高望王(たかもちおう)という人がいました。血筋が天皇家からだいぶ薄くなってきたため皇籍から離れ、平という苗字を授かり臣下となりました。これが軍事貴族の平家です。高望王の長男・国香(くにか)は常陸、次男・良兼は上総、三男・良将(よしもち)は下総へとそれぞれ関東(東国)に派遣されました。高望王の側室の子であった良文は、最初は東国行きを拒んでいましたが、朝廷の命令で現在の埼玉県熊谷市の村岡に移り住みました。

高望王の三男・良将は早くに亡くなり、その後を継いだ息子の将門と2人の叔父・国香と良兼との間で対立がおこり、将門は国香を殺してしまいます。あるとき巫女に霊が乗り移り、将門にお告げをしました。それは八幡神と天神・菅原道真の霊でした。八幡神は将門に「新皇」の位を任命し、道真の霊によって授与されました。こうして将門は「新皇」を名乗り、関東に独立国を樹立させようとしたのです。これがいわゆる「平将門の乱」(天慶2年(939))です。しかし将門は国香の嫡男の貞盛や藤原秀郷らに滅ぼされてしまいます。

この反乱に乗じて、平良文は力を蓄え、関東の広い範囲に影響力をあたえましました。そのため関東武士の多くが平良文を先祖だとしています。鎌倉郡と接する相模の村岡など、良文が館を構えたとする場所も関東各地に伝わっています。

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二伝寺(にでんじ)砦(神奈川県藤沢市)に残る平良文の塚

平良文が勢力を広げる中、居場所を失った平貞盛の子孫は荘園のある伊勢に拠点を移します。この貞盛の直系が平家の主流となるわけです。一方、良文には平忠常という孫がいましたが、今度はこの平忠常が房総で反乱を起こします(「平忠常の乱」(長元元年(1028))。この反乱を鎮めるために選ばれたのが貞盛の子孫の一人、平直方(なおかた)でした。直方は鎌倉を拠点として武力鎮圧を試みますが、忠常の必死の抵抗にあい、戦局は泥沼化してしまいました。事態の悪化から朝廷は直方を更迭してしまいます。
次いで平忠常の制圧に任命されたのが、清和天皇を祖とする清和源氏の源頼信でした。頼信は忠常に対し、力ではなく対話で解決しようとしました。忠常は頼信とお互いの子孫が今後助け合う条件で降伏しました。

一方、面目を潰されたものの、平直方は優秀な武人として知られていた源頼信の息子・頼義に自分の娘を嫁がせ、領地である鎌倉を頼義に引き渡しました。これにより源氏と鎌倉の繋がりができたわけです。平直方の子孫はかつての勢いを失い、伊豆の北条を名乗る地方豪族になり下がりました。北条時政とその子供である政子、義時はこの平直方の子孫にあたります。
その後、源頼義は東北の有力者である安倍氏を「前九年の役」(永承6年~康平5年(1051~1062))で滅ぼし、頼義の子の八幡太郎義家も同じく清原氏を「後三年の役」(永保3年~寛治元年(1083~1087)で滅ぼし、源氏の東国における勢力を確実なものとしました。平忠常の子孫は上総氏と名乗り、さらに有力な分家として千葉氏を輩出します。

ところが平安時代後期に起こった「平治の乱」(平治元年(1160))で清和源氏は平家に敗れ、幼くして生き残った源頼朝や源義経は謀反人の子供として流刑になりました。その後、頼朝は流刑先の伊豆で北条政子と結婚し、打倒平家の旗揚げをしました。しかし、相模における平良文の子孫、大庭景親(おおばかげちか)に「石橋山の合戦」(治承4年(1180))で敗れ、上総氏と千葉氏を頼りに海を渡り房総に逃走しました。
 
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石橋山の合戦で敗れた源頼朝が隠れた「しとどの窟(いわや)」(神奈川県湯河原市)
 
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「源頼朝上陸地」の石碑 千葉県鋸南町竜島

源頼朝を迎えた千葉常胤(つねたね)は、「ここはさしたる要害の地ではありません。また源氏のゆかりの地でもないので鎌倉に移られてください」と鎌倉入りを勧めます。この常胤の言葉から鎌倉の町全体が天然の城郭だと言われているのですが、実は時を同じくして千葉氏は藤原親正から千田荘(ちだのしょう)を奪い取っています。千田荘は成田空港の東側に位置する現在の千葉県香取郡多古町に相当します。多古は多湖に通じ、栗山川流域の湿地帯に島のように台地が点在しており、6km四方ほどのエリアの中に30以上の城郭が存在しています。文字通り要害の地です。また頼朝の父、源義朝は幼少の時に上総氏の保護を受け、上総にいたこともありました。全く源氏と無縁というわけでもありません。
 
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千葉氏が手中に収めた千田庄(千葉県香取郡多古町)には中世城郭が数多く残っています。図はそのうちの一つの並木城。大竹正芳画

ではなぜ千葉常胤は頼朝を鎌倉に行かせたかったのでしょうか。もうここまで読んだ方にはお判りになると思います。これはまさしく「平忠常の乱」にちなんだもの! 「平忠常の乱」の当事者の子孫たちが偶然一堂に会したことにより、常胤は先祖を思い頼朝に鎌倉入りを勧めたのではないのでしょうか。少なくとも私にはそう思えてなりません。

源頼朝は鎌倉に入ると街づくりを始めます。先祖の頼義は「前九年の役」で勝利した後、由比ガ浜の砂丘の上に石清水八幡宮から勧請して鶴岡八幡宮(元八幡)を建立しました。頼朝は小林郷の北山(大臣山)にその八幡宮を移します。

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雪の鶴岡八幡宮 日本画 大竹正芳画

また自らの館を八幡宮の東隣りの大倉に建てました。その東側には鎌倉時代以前から存在していたという荏柄(えがら)天神社が建っています。つまり、大倉の幕府は八幡神と天神(菅原道真)にはさまれていたのです。これはおそらく関東に武家政権を立ち上げるのにあたり、平将門が新皇になった故事を意識していたのでしょう。

余談ですが荏柄天神の南東には、やはり鎌倉で最も古いと言われている杉本寺があります。頼朝が鎌倉に入府した時は大倉観音堂と呼ばれていました。鎌倉時代の初めに火災があり、お寺のお坊さんが火中からご本尊の観音様を助け出し、お坊さんも仏像も無傷で杉の根元に避難したといわれています。この話から後に杉本寺と呼ばれるようになりました。和田義盛の父・杉本太郎義宗がこの地に館を構えていたとされるのですが、時系列としておかしいので、おそらく関係がないものと思われます。

次回は、「なぜ『玉葉』(関白・九条兼実が長寛2年(1164)から建仁3年(1203)の間記した日記)に「鎌倉城」と書かれたのか」、また「具体的にどのようなものであったのか」を考察していきたいと思います。

鎌倉殿の13人執筆・写真・イラスト/大竹正芳
日本画家&城郭研究家。東京藝術大学美術学部絵画科日本画専攻卒業。日本城郭史学会委員、一般社団法人日本甲冑武具研究保存会評議員、毎日新聞旅行「戦国廃城を歩く」同行講師を務める。論文多数、玉縄城(神奈川県鎌倉市)や多古城郭保存活用会等の城跡による町おこしの指導、コンサルタントも行う。画家としても有名百貨店にて個展多数、歌川国芳の七代目正統後継者でもある。