2022/10/05
お城紀行〜城下と美味と名湯と お城紀行〜城下と美味と名湯と 第3回 |【会津若松城・後編】土方歳三が傷を癒した、東山温泉へ
お城はもちろん、その城下町にある美味しいグルメや温泉を紹介する「お城紀行〜城下と美味と名湯と」。今回は会津若松の城下から、かの新選組副長・土方歳三も訪れた名湯・東山温泉へ向かいます。※初掲 2018年1月17日。2022年10月5日更新
つららがおりた会津藩校・日新館の建物
会津武士を育てた雪深き城下町
この雪が、会津武士の逞しさ、強い精神力を育てたのかもしれない・・・。そう感じるほどの豪雪に覆われた会津若松城下。そして現在、会津若松の郊外に復興されている藩校・日新館は、とくにそのことを強く実感できる場所といえよう。全国にあった藩校の中でもトップクラスの教育レベルを誇り、藩外からも学びに来る者が多かった。
水練場(プール)の跡。実際は池があるのだが、雪で覆われ、銅像は首まで埋まっている。
「ならぬことはならぬものです」というフレーズで知られる「什(じゅう)の掟」が 、まず会津武士の子供たちには徹底的に叩き込まれた。そして10歳になると、この日新館でもっとしっかりした規範である「日新館童子訓」を学んだという。会津武士は、幼き日にそれらを身に染み込ませてから勉学や武芸に励んだのである。大河ドラマ『西郷どん』でも薩摩藩の郷中教育が描かれていたが、両藩の幕末での活躍を見るに、教育の大切さというものが身に沁みてわかる。
旧滝沢本陣。もともと横山家の住居で現在も敷地内にご子孫が暮らす。
旧滝沢本陣。参勤交代や領内巡視などを行った際の藩主の休息所である。会津戦争の際にも使われた場所で、白虎隊もここで命を受けて戸ノ口原戦場へと出陣したとか。茅葺きの屋根に覆われた書院造りの建物は、国の重要文化財に指定され、御入御門・御座の間・御次の間などが当時の姿のまま残されている。
藩主が使った厠。厠とはトイレのこと
藩主が使った風呂場や厠(かわや)も、当時のまま残る。こういう生活の跡は、なかなか残存しにくいものなので、文化的にも貴重だ。「使わないようにね」と、家内に釘をさされる。言われなくても使わんわい・・・。
会津藩主松平家墓所や、天寧寺にある近藤勇の墓にも立ち寄りたかった。しかし、墓はいずれも山の上にあり雪のため断念。積もり方が半端ではなく、近づくこともできなかった。
これは夏に訪れたときの近藤勇の墓。一説によれば、土方歳三がここに近藤の首を埋葬し、ひそかに小さな墓碑を立てたという。
近藤の墓は他に3か所(東京板橋東口駅前、愛知県岡崎市法蔵寺、東京三鷹の竜源寺)あるが、ここに何も埋まっていなくとも、近藤の死を悼んで土方が建てたという点で観れば、貴重な「史跡」といえる。
土方歳三も逗留した東山温泉へ
旅館・向瀧。風格と雅を感じさせる外観だ。
さて、だいぶ身体も冷えてきた。もう凍えそうだ。そろそろ宿へ向かおう。今夜の宿は、東山温泉のシンボル的な旅館「向瀧」(むかいたき)。橋の向こうに佇む赤瓦葺き入母屋根の玄関から、中庭を囲む木造建築すべてが、国の登録有形文化財。重厚な外観に渓流の音が心地良く響く。
1泊2食19,950円~は、「ちょっとお高め?」と感じる方もおられるかもしれないが、実際に泊まってみれば、それがいかにお値打ちかが分かるはず。しかも、この宿。江戸時代は会津藩上級武士の保養所だったという伝統を持つ。宿としての創業は明治6年(1873)で、現在のご主人は6代目。その歴史を聞けば、納得せざるをえない。※宿泊料金は取材当時のものです。最新の情報は事前にご確認ください。
「向瀧」自慢の大浴場「きつね湯」(向瀧提供)
敷地内から湧き出す「きつね湯」は源泉かけ流しで、昔と変わりなく人々の心身を癒し続ける。ちなみに夕食で味わえる「鯉の甘煮」は絶品。会津藩家老・田中玄宰が作らせたといわれる名物だ。温泉・食事・接客から歴史に至るまで、お世辞抜きで、本当にクオリティの高い宿なのである。おかげで凍えきった身も心もすっかり温まり、家内もご満悦の様子、何よりであった。
さて東山温泉といえば、やはり土方歳三の逸話を紹介しておかねばなるまい。慶応4年(1868)3月、下総流山で近藤勇と別れた土方歳三は、残った新選組隊士を率いて宇都宮での合戦に参加し、足を負傷してしまう。
敗戦後は会津に向かい、4月下旬に若松城下へ到着。七日町の市街地にあった『清水屋旅館』(現在は大東銀行)に投宿した。そこで医師の治療を受けるが、土方の足の傷は思いのほか深く、『天寧温泉』(現在の東山温泉)に通い、湯治することとなった。
その土方が浸かったといわれるのが、川辺に湧く「猿の湯」という源泉である。壁面に土方の顔が描かれており、そのそばに源泉が湧き出す池が湯気を立てている。「わあ、入りたい!」などと家内は言うけれど、湯温はかなりぬるく、そのまま風呂として使うには難しそうだ。なにより脱衣所もないから無理である。
じつは以前、この建物は「不動滝旅館」という宿だったが、現在は「くつろぎ宿 新滝」に屋号が変わっている。建物内に、同じ「猿の湯」源泉をかけ流した大浴場があり、「くつろぎ宿 新滝」に宿泊すれば入浴ができる。
「くつろぎ宿 新滝」の地下にある千年の湯。(くつろぎ宿 新滝提供)
雪に覆われた「くつろぎ宿 新滝」(くつろぎ宿 新滝提供)
また、この「くつろぎ宿 新滝」の地下にある風呂「千年の湯」も、すばらしい。天然の温泉自噴岩盤をそのまま生かした古い浴場で、かつては歴代藩主の湯殿だったという。もしかすると、松平容保がこの湯に浸かったかもしれないのだ。こちらの宿も充分におすすめできるので、気になる方はぜひ藩主ゆかりの湯に浸かってみてほしい。
明治初期の東山温泉。土方歳三戦傷湯治岩風呂の看板より。
この明治初期の頃の東山温泉の絵図によると、川べりに「猿の湯」の湯殿があったことが確かに確認できる。向瀧も描かれている。土方も会津藩が管理していたこれらの湯殿を利用し、足の治療に専念したのかもしれない。次第に傷が癒えてくると、そのまま川に入って泳いだという逸話も伝わっている。
昭和初期の頃までは、実際に河原に下りて泳いだり、洗濯をする人々の姿が多く見られたらしい。土方や会津藩士たちの心身を癒した温泉と、川の流れ。それはずっと変わらず、今もそこにある。厳寒の時期の会津で、しんみり心の洗濯、たまにはいいものだ。
執筆・写真/上永 哲矢(うえなが てつや)
神奈川県出身。歴史文筆家・トラベルライター。日本史・三国志や旅を主な生業として雑誌・書籍などに寄稿。歴史取材の傍ら温泉に立ち寄ることが至上の喜び。著書に『高野山 その地に眠る偉人たち』(三栄書房)『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)『ひなびた温泉パラダイス』(山と溪谷社)がある。
※歴史的事実や城郭情報などは、各市町村など、自治体や城郭が発信している情報(パンフレット、自治体のWEBサイト等)を参考にしています