【続日本100名城・三春城(福島県)】戦国時代の石垣が語る、春爛漫タウンの山城

戦国時代から江戸時代初頭まで、伊達家や蒲生家など東北を代表する大名たちの勢力下に置かれた三春城。支城としての役目を担ってきた三春城も、寛永4年(1627)に立藩し近世城郭へと生まれ変わりました。本丸周辺にわずかに残る石垣やダイナミックな堀切が見どころ。かつての面影を探して三春城跡を散策してみましょう!


三春町の名物は、さくら!

三春滝桜
日本三大桜の一つ、三春滝桜。樹齢はなんと推定千年以上!!!(写真提供:株式会社三春まちづくり公社 観光部)

JR郡山駅から車で30分の場所にある三春城跡(福島県)。阿武隈高地の西のへりにあたり、長い年月のなか丘陵地が侵食されて谷ができ、周囲はゆるやかな山並みがつづきます。

三春町といえば「桜」が町の代名詞。大正11年(1922)に桜の木としては初となる国の天然記念物に指定された「三春滝桜」をはじめ、「桜谷枝垂れ桜」や「法華寺の桜」など町内にはなんと約1万本の桜が存在しています。まさに「三春」の名にふさわしい春爛漫な見どころですよね。実は、このベニシダレザクラは三春城跡へ向かうお城坂にもあるのです! そんな桜の町にある三春城の歴史をご紹介します。

三春城跡、ベニシダレザクラ
南町方面から三春城跡へ通じるお城坂を登ると現れるベニシダレザクラ。私有地のため道路から見学しよう!(写真提供:株式会社三春まちづくり公社 観光部)

東北の重鎮たちの勢力下におかれた三春城

三春城、石垣
城址碑の足元に転がる石垣の一部。かつては背後の法面(のりめん)にはりついていたものだろう

16世紀のはじめに築かれた三春城は、明治の廃城令で解体されるまで約370年にわたり田村地方を治めた拠点の城です。

「田村麿旧跡物語」によると、永正元年(1504)田村義顕(よしあき)によって築かれました。彼の孫にあたる3代・田村清顕は奥州の覇者・伊達政宗の正室の父にあたり、天正14年(1586)清顕の死をきっかけに伊達家の勢力下におかれます。

三春城、石垣
本丸の裏門そばに残る石垣。蒲生氏時代に積まれたと考えられている

戦国時代から江戸時代初期の三春城は、伊達政宗や蒲生氏郷(がもううじさと)、さらには上杉景勝など東北を代表する大名たちの領内に組み込まれ、支城の一つとしての役目を担いました。

とくに、この時期の三春城に変化をもたらしたのは、豊臣秀吉の優秀な家臣でもある蒲生氏郷という人物です。天正18年(1590)に秀吉による奥州仕置で田村氏が改易になると、翌年三春城は蒲生氏郷の領地に組み入れられ城と城下町の整備を行いました。蒲生氏の城は石垣を用いた城造りが特徴で、本丸周辺に残る石垣はこの蒲生氏時代に築かれたものと考えられています。

三春城、本丸
写真中央の山が三春城跡の本丸。山の麓からは比高100mほどだ。城内は一部通行禁止エリアがあるので注意が必要

三春城に再び転機が訪れたのは、寛永4年(1627)のこと。加藤嘉明の子・明利(あきとし)に3万石が与えられ三春藩が立藩。明利の在任期間は1年あまりと短いものでしたが、翌年に入封した松下長綱(まつしたながつな)によって、本丸に白壁と瓦葺の建物が建造されました。城代が置かれたこれまでの城とは違った「大名の居城」としてふさわしい近世城郭へと生まれ変わらせたのです。

ちなみに長綱はとても気になる人物で、16年藩主を勤めたもののどうやら「発狂」が理由で改易になったそう。それも、妻の父が「長綱が発狂をしたので領地を幕府に返納したい」と願い出ていたようですから……彼に一体何があったのでしょうか。心配です。

なお、三春城で最も長く籍を置いたのは、正保2年(1645)に5万石で入封した秋田氏です。俊季(としすえ)から数えて映季(あきすえ)に至るまで11代が藩主を務め、明治をむかえました。

遺構を見ながら山頂部を目指そう!

三春城、搦手門跡
搦手門跡。まっすぐ進むと本丸山頂部へ至る

町のほぼ中央にある、標高407.5mの大志多山(おおしだやま)に築かれた三春城跡。本丸を中心に二の丸、三の丸が南西の尾根上に展開し、中腹から平場にかけてはかつて家臣の屋敷群が続いていました。

大正11年(1922)には三春城跡を公園として整備。登城路は、車も通れるほどに舗装されていて歩きやすい道のりです。本丸跡付近まで車で登ることもできます。

三春城、竪堀
竪堀にかかる橋。草木に覆われわかりにくいが、堀幅は10m以上あるだろうか? この道をまっすぐ東へ進むと三の丸(東館)跡に至る

徒歩で巡る方は、南町からお城坂を登ってみましょう。ニの門跡からは土の階段を登り、揚土門(あげつちもん)跡、三の門跡を通過すると表門跡へ到着します。表門は、本丸の入口です。

三春城、揚土門跡、三の門跡
(左)揚土門跡。(右)三の門跡。つづら折りの道を登っていくと、看板が門の存在を教えてくれる

本丸跡の特徴は2つに分かれた構造

三春城、本丸跡の下段
本丸跡の下段。写真右手が裏門のあった場所。写真左奥にはかつて三階櫓が建っていたが、取り壊され基壇(きだん・土をつきかためて一段高く盛った場所)が再現されている

三春城、三階櫓跡
三階櫓跡から見る景色。北町方面を臨む

本丸は上段・下段の2つに分かれた構造になっている点が特徴です。

下段には、天守代用となった高さ推定13mの三階櫓、さらには多聞櫓や塀が縁をめぐるように建てられていました。そして、南面には櫓門形式の立派な表門、北面には裏門が構えられていたようです。(「三春城起こし絵図」参照)


三春城起こし絵図
17世紀中頃の三春城が描かれていると考えられている「三春城起こし絵図」(画像提供:三春町歴史民俗資料館)

表門跡で実施された発掘調査によると、門の大きさは間口10.6m、奥行きは5.5mで、門を取り囲むように石積みの溝が確認されています。

三春城、本丸跡
本丸跡の上段部分。本丸周辺では松下氏の家紋「四つ目紋」の鬼瓦が1点出土している

一方、上段には広間と台所、藩主が暮らす御座の間がありました。確認できた家紋付き瓦は松下家のみということからも、「大名の居城」たる建物をかまえたのは松下長綱だということが考えられます。

また、松下氏の頃までは山の上を拠点にしていたものの、秋田氏が藩主になると、新たに山麓に御殿を築いたため、山頂の本丸御殿は正月や節句などの儀式の時のみ使用されていたようです。しかし、天明5年(1785)の火災で建物の大部分や石垣が焼け落ちると、三階櫓をはじめとする一部の建物のみを再建し、山頂部に他の建物が築かれることはありませんでした。

二の丸跡とダイナミックな堀切が見どころ

三春城、二の丸跡
現在は動物をモチーフにした遊具が置かれている二の丸跡。絵図からは、かつて法面に石垣がびっしりと貼りついていた様子が窺える

遊具が置かれている二の丸跡は、昭和44年(1969)に「城山児童遊園地」として整備され、堀切も通路として拡張・掘り下げられました。後世に手が加えられたとはいえ、迫力のある堀切が見どころです!

伊達政宗も足繁く通っていた東館跡って!?

三春城、堀切
三の丸跡から田村大元神社まで降りる山道があり、本丸周辺の堀切とは規模が異なる小さな堀切を通過していく

時間のある方は少し足を伸ばして三の丸跡まで行ってみましょう! 

江戸時代には三の丸だった場所、戦国時代には「東館」と呼ばれていました。三春城を築いた田村家には、伊達政宗の正室がいるという話は先述の「東北の重鎮たちの勢力下におかれた三春城」の見出しの中でお話した通りです。その正妻・愛姫の祖母、田村隆顕夫人は伊達家の出身! 政宗にとって大叔母にあたる人物で、天正16年(1588)に42日ほど三春城で暮らした政宗は、なんと15回も「御東」を訪れていた記録が残っています。

政宗にとって東館は心がホッとする場所だったのかもしれませんね! そう思いながら見学すると、東館跡が特別な場所に思えてきます。

三春町の知の拠点、三春町歴史民俗資料館

三春城、三春町歴史民俗資料館
三春町歴史民俗資料館の北側にある「桜谷枝垂れ桜」も見逃さないように!

昭和58年(1983)に開館した三春町歴史民俗資料館は、町の歴史や文化に関する3万点以上の史料を収蔵した三春の「知の拠点」です。三春城に関する絵図や出土品のほか、明治時代のはじめにあった自由民権運動で、三春町出身の河野広中(こうのひろなか)に関する史料も展示されています。実は、彼の活動によって東北地方最大の自由民権運動中心地となった三春。常設展示室とは別に、「自由民権記念館」も併設されています。

また年に数回、企画展も行われ、直近では2022年4月2日〜6月26日にかけて春季企画展「天然記念物指定100年記念 三春滝ザクラ」を開催中。町のシンボル・三春滝桜をフィーチャーした内容です。

唯一残る三春城の建物遺構!藩校時代の表門

三春城、表門
表門に掲げられた扁額にある「明徳堂」の文字は倩季によって書かれた

秋田氏7代目・倩季 (よしすえ)が藩主の時代に、講所(藩校)が設立。名前を「明徳堂」として、三春藩士を育ててきました。

江戸時代、講所は現在の三春町福祉会館の位置に建てられていましたが、天明5年(1785)の火事で講所が焼失し、現在の役場新庁舎の場所で再建されました。明治になると講所は廃止されしばらくは公会堂の門として使用されていましたが、昭和22年(1947)には三春小学校の校門として移築され今に至ります。

山城を肌で感じる城めぐり

明治の戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わった三春藩ですが、新政府軍による攻撃の前に降参し無血開城となりました。廃城後は、残っていた御殿などの建物、さらには石垣や敷石の石材に至るまでが売却。表門や三重櫓も公園化に伴って撤去され、城は姿を消してしまいました。

丸裸になった三春城ですが、約370年を“生き抜いた”その「城涯」が刻まれ、ところどころに顔を覗かせてくれる史跡です! 爛漫の春はもちろん、どの季節に訪れても気持ちがいい城巡りができますよ。

三春城の基本情報
・住所:福島県田村郡三春町字大町
・電話番号:0247-62-5263(三春町歴史民俗資料館)

<三春町歴史民俗資料館>
・住所:福島県田村郡三春町字桜谷5番地
・電話番号:0247-62-5263
・営業時間:9:00〜16:30(最終入館16:00)
・休館日:月曜日(祝日の場合は開館)、国民の祝日の翌日(土・日曜日にあたる場合は開館)、年末年始、その他臨時に休館あり。歴史民俗資料館HPよりご確認ください

※文中、歴史を解説する際は「三春城」、史跡を紹介する際は「三春城跡」や「本丸跡」などと表記しています。
※本丸跡、二の丸跡、三の丸跡といった曲輪の名称は、三春城跡パンフレットを参照しています。


いなもとかおり
 執筆・写真/いなもと かおり
 お城マニア&観光ライター
 年間120城を巡る城マニア。國學院大學文学部史学科古代史専攻卒。19歳の時に、会津若松城に一目惚れしてから城の虜となる。訪城数は600ほど。国内旅行業務取扱管理者、日本城郭検定1級、温泉ソムリエ、夜景鑑賞士2級の資格をもつ。城めぐりの楽しみ方を伝えるべく、テレビやラジオにも出演中。

【参考文献・HP】
・『蒲生氏の時代 〜暮らしの中の天下統一〜』(三春町歴史民俗資料館、2015)
・平田禎文 氏「24 三春城跡」『北日本における近世城郭 : 一般社団法人日本考古学協会2016年度弘前大会第Ⅲ分科会 : 研究報告資料集』(日本考古学協会2016年度弘前大会実行委員会、2016)
・三春の歴史こぼれ話 |Web資料館(三春町歴史民俗資料館)

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