前田慶次の自腹でお城めぐり 【第22回】凸二条城 後編~幻の天空の路~

お城に関する豊富な知識を持つ名古屋おもてなし武将隊®の一員・前田慶次様が、全国のお城を実際にめぐりながら歴史・特徴・魅力を解説する城びとの連載。今回は、世界遺産にも登録されている国宝・二条城(京都府京都市)の後編です。今回は国宝二の丸御殿から本丸へと向かい、本丸櫓門土蔵などの重要文化財の見どころから、今はなき天守にまつわる驚きの逸話などまで細かく紹介します。

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皆の衆、我こそは名古屋おもてなし武将隊天下御免ノ傾奇者前田慶次である。

此度(こたび)城びとと同盟を結び、此の前田慶次が連載を持つ事と相成った。
先ずは、名乗りを上げよう。

前田慶次

前田慶次齢四八十一歳。戦国の世では天下御免ノ傾奇者として名を馳せ申した。現世に蘇りは名古屋おもてなし武将隊の一角として、名古屋城を拠点に名古屋を世界一の観光都市にせんが為、日々戦働きに勤しむ。

演武といったパフォーマンスなるものを披露し、電波放送戦(テレビやラジオ)は常戦番組(レギュラー)を持ち、全国各地に遠征を繰り広げる。
結成十五年目を迎え、全国の武将隊の先駆けとして日ノ本を代表とする武将隊である。
して、儂前田慶次は現世に蘇り歴史の語り部として多くの戦に出陣して参った。

伝統芸能を伝える舞台出陣、歴史学者との対談、寺子屋(学校)での歴史授業。
名古屋城検定名誉顧問に叙任され、検定過去最高得点を叩き出す。
日本城郭検定にも挑戦し合格。
日ノ本が誇る歴史文化をより多くの者に伝えるべく、此度から城びとでの連載を始める次第。

題して
 
前田慶次の自腹でお城めぐり、犬山城

【前田慶次の自腹でお城めぐり】

他の連載と何が違うのか!?

・現世に生きる戦国武将自らが感じたことを紹介!
・傾奇者による城郭魅力度数値化!
・城巡りの手引書(案内)となる!
・地域の特色を織り交ぜ、観光が楽しくなる!
・イケメン(前田慶次)が見れる!
・要点を抑えた紹介!
・兎に角分かりやすい!

全国の城に直接己が足で出向き、城の見方、歴史を伝え、
其の城の傾き所(見所)や天守閣、男前田度(イケメン)を前田慶次の独断で評価する。
歴史初心者から玄人まで楽しめる、国宝連載となっておる。

ただ城を巡るのではなく! 儂の金子(金)で城に登城する。つまり限られた金子で巡る
旅の道中劇にも注目してもらいたい!!
また巡り方については、王道の道順を歩む故に参考にすると良い。

二条城(京都府) 城郭の魅力度を数値化

 
前田慶次、二条城

初の世界遺産に大興奮! 

前田慶次、二条城

【基本情報】

城郭構造:平城
主な築城者:徳川家康
築城年:慶長8年(1603)
廃城:明治6年(1873)
主な指定文化財:世界文化遺産 国宝 国の重要文化財 特別名勝

【歴史】

■天下人が築城!名前は二条城?二条亭? 
慶長6年(1601)関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、上洛時の宿として、朝廷の守備として大宮押小路に築城を決める!
天下普請事業の一つで西国諸大名が築城を負担した。
作事の大工棟梁には当代一流の職人、中井正清が選出。
幕府は二条城と呼んだが、朝廷は二条亭と呼んだ。
朝廷としては城と言うより宿、屋敷の認識が強かったのやもしれぬ。

■将軍宣下!武家の頂点のパーティー!
慶長8年(1603)徳川家康伏見城にて征夷大将軍叙任!
完成直後の二条城に入城し「拝賀の礼」を行う。
重臣や公家衆を招いて将軍就任を祝う! この行事は3代家光まで行われる!

■大坂の陣のきっかけ?秀頼もやってくる!
慶長16年(1611)二条城の御殿(二ノ丸)にて徳川家康と豊臣秀頼の会見が行われる!
この時に家康は秀頼の見事な立ち振る舞い方に危機感を覚え、後の大坂の陣を引き起こしたとも言われる。
大坂の陣の時に二条城は徳川方の本営となった!

■秀忠が縄張担当して改修?
元和5年(1619)徳川秀忠が二条城の改修を行うが、自ら縄張を担当したとか!
ただ、築城名手藤堂高虎も共に行ったようで、秀忠がどこまで関わったかは不明。 

■三代将軍家光の時に大改修!
寛永元年(1624)徳川家光が将軍となり、後水尾天皇の行幸の為に大改修!
城は西に拡張され、そこに新本丸と天守を築城!
二の丸御殿も改修され、当代一流の絵師集団、狩野派による豪華絢爛な障壁画が仕上げられた!

■焼失と地震による被害
寛延3年(1750)落雷により天守が焼失。天明8年(1788)には天明の大火が原因で本丸御殿、隅櫓が焼失。
焼失した建物は再築されることは無かった。
万延元年(1860)京都地震により御殿を始め、門、櫓が傾くなど大きな被害。

■武家時代の最期を迎える
慶応3年(1867)15代将軍慶喜は徳川将軍家の拠点にする。そして二条城二の丸御殿で大政奉還を行う。

■皇室の離宮となり活躍
明治17年(1884)二条離宮となり皇室の建物となる。
大正天皇は10回滞在され本丸御殿で宿泊。二の丸御殿は仕事場として利用し離宮として大活躍!

■観光地、そして世界遺産へ
昭和14年(1939)京都市に下賜され翌15年(1940)には恩賜元離宮二条城として一般公開!
昭和27年(1952)二の丸御殿を中心に国宝指定。平成6年(1994)世界文化遺産に登録。

前田慶次、二条城

前田慶次、二条城
 

【火事対策の江戸時代】

二之丸御殿を出て、本丸を目指す最中である。
御殿の目の前に鐘があるでにゃーか!

此の鐘は火事等の緊急事態の時に周辺に報せる為の鐘である!
城の中には鐘や太鼓を鳴らして緊急を報せる事は定石である!(太鼓櫓は有名であろう)
現世も火事対策は無論抜かりなくしておると思うが、昔は火事ほど恐れた事は無い!

実際、城はだいたい火事で焼失しておるし
城だけでなく町自体も大炎上する事が多々あったのが江戸時代!
二条城もその対策として、京都所司代(警察のような存在)の屋敷(二条城に隣接)に
この鐘を備えておったそうじゃ!
して京都所司代が廃止され二条城に移された故にこうしてあるのじゃ!

慶次「釣鐘と申して江戸時代の鐘だで、これ自体も非常に文化財としての価値がある。
鐘や太鼓の音が鳴れば、我等は真っ先に屋敷から飛び出したものよ。
現世はJアラートなるものや緊急速報という形であろうか?」

本丸へ行軍して参る前に二之丸庭園を愛でるぞ!
 
前田慶次、二条城、二之丸庭園

前田慶次、二条城、二之丸庭園

【二之丸庭園の秘密】

本丸へ参る前に二之丸御殿の隣にある二之丸庭園を楽しむ事が出来申す!
数寄者であり、傾奇者の儂としては見逃せない城郭の魅力の一つ
それが「庭園」である!

二条城二之丸庭園は「特別名勝」に指定される!
名勝の中でも最も重要な価値のある庭園に贈られる最強の称号である!
因みに特別名勝に指定される庭園は全国でもかなり希少である故に
じっくり、素晴らしさをその目で体感すべきぞ!

では、どういった点を見るべきか伝えよう。

・神仙蓬莱(しんせんほうらい)の世界を表現!(中国の不老不死の仙人が住む山を想像させる庭園)
・実は中庭! 周りは御殿に囲まれており三方向から鑑賞するように設計されておる!
・庭園越しに天守が一望できた
・回遊式庭園
・作庭は名手「小堀遠州」

ざっとこんな所か。
見た目での楽しみは、全体を見渡して庭園自体が何を表現しているかを想像する!

御殿の障壁画や部屋のそれぞれの造りも考えておるように、庭園も縁起担ぎなど考えておる!
無論、城主の趣向が出る。
二条城二之丸庭園は中国の不老不死の仙人が住んでいた地を見本とし全体を作庭!
池の中央に島を三つを石橋で繋げ、石組、滝を造りあげ見事に表現した!

現在は二之丸御殿以外の「行幸御殿」が無い故に
三方から楽しんだというのが実感しづらいが、
庭園の周囲には御殿があったと考えれば、
真ん中に神仙蓬菜という不老不死の縁起物を造るというのは、
「永劫」政権が続くであったり、御家の安泰を願ったのであろう!

また、儂の写し絵に注目して欲しいが、
二之丸御殿の大広間から庭と天守が見えたそうじゃ!

慶次「現在は天守が無い故に皆の想像力にかかっておる! ワッハハハハハハ」

作庭者小堀遠州と申せば、名古屋城の二之丸庭園も作庭した名手!
小堀遠州は江戸幕府の中で作事奉行として名を馳せておるが、庭造りもできる器用な男じゃ!

慶次「現世で申せばスーパークリエーターと言ったところか!」

然し、行幸御殿も撤去され小堀遠州の意図が薄まる中、
徳川吉宗が将軍の時代に庭園は改修されたそうじゃ。
故に、現在見る庭園は当時の全てを表現できておるわけではない!

慶次「庭園は時代背景を投影する。
情勢、人々の願いを形にして参った庭園文化は今も受け継がれておる!」

庭園を愛でながら歩みを進め本丸へ。

前田慶次、二条城、銅板の門

銅板の門。
 
前田慶次、二条城、木橋に擬宝珠

前田慶次、二条城、木橋に擬宝珠

木橋に擬宝珠(ぎぼし)。

【重要文化財:本丸櫓門】

庭園の目の前に橋が見える! 此処が本丸の虎口である!
重厚な門が守りを固める…。

ご覧の通り木でできた門でにゃーて、「銅板」で覆われた鉄壁の守りである!
総銅板の門は儂も初めて見たが、雨風で錆びておるようじゃ。
本来は赤金色であったであろう。
此(こ)れが現在重要文化財指定を受ける本丸櫓門じゃ!
時代的にも重火器での合戦に備えて斯様な造りにしたのであろう。見事!!

門の壮大さに目がいきがちであるが、此処の橋に注目じゃ。

慶次「擬宝珠があるでにゃーか!」

寺社建築で装飾としても活躍する玉ねぎの様な
此の擬宝珠は格式の高さを表現する!

慶次「今後擬宝珠を見つけた折は、
おおぉー擬宝珠があるということは…!
と大きな声を出すと良い! ワッハハハハハハ」

また、敢えての木橋で籠城戦の時に橋を落として敵軍の侵入を阻み
本丸櫓門の守備の堅さを活かして狭間から鉄砲による攻撃という作戦に違いない!
本丸は城郭において最も重要な曲輪だでな。

ほいで驚いたことが一つ!

【二の丸御殿から本丸天守まで空中散歩?】

前田慶次、二条城、本丸天守

案内看板によると。
嘗(かつ)て、木橋は二階橋となっており
二の丸御殿から橋の二階の畳廊下を通って、
地上を歩かずに本丸天守へ登れたそうじゃ!
此の天守に登られたのは「後水尾天皇」様ただ一人だそうじゃ。

慶次「地上を歩かず天守へ登る? そのような夢の様な道。
天へと続く道を造り上げてしまうとは、流石二条城!
傾奇者の儂もこの目で観たかったぞ!」

斯様な伝説の虎口を通り抜けると。

前田慶次、二条城、本丸御殿

二階建て?

前田慶次、二条城、本丸御殿

前田慶次、二条城、本丸御殿

【改修で誕生した本丸御殿の珍しき造りとは】

城郭において本丸御殿は心臓部といっても過言ではない!
城主の居住であり、政の場である。
二条城の本丸御殿は将軍徳川家光(3代将軍)が寛永3年(1626)に
後水尾天皇の行幸が為に城の区域を西側に広げ築城されたものである!

然し、後に大火によって焼失し、最後の将軍徳川慶喜が再建したが、
これも又城郭が必要とされない時代となり取り壊し。
現在の本丸御殿は桂宮家が所有していた御殿の主要部を
明治天皇の意向により移築したものとなっておる!

何故か?
二条城は離宮であった為に帝の別荘(ホテル)として利用する為であった!
移築後は大正天皇が10回以上も宿泊された貴重な建物であり、
江戸時代の住宅建築は殆ど残っていない為に、
色んな観点から見ても非常に貴重な御殿と言える!
4つの区画に分かれており、玄関、居住空間、政治などの仕事場、台所となっておる!

中でも儂が気になったのは、畳を外すと「能舞台」が姿を見せる造りである!
此れが仕事場にあったという事は、公家衆との仕事の話において「能」が深く関わり
見世物と出し物として重宝されたのが分かるであろう!

慶次「今で申せば舞妓達の芸を楽しみながら、
時に仕事の話なんじゃが…〇〇△▽。といったところかのう」

二階部分の数寄屋造にも目が離せぬ。
それぞれ、現在は修繕中という事で完成したらば今一度此の目で観たいものじゃ!

修繕中の本丸御殿を抜け参るは…。

前田慶次、二条城、天守跡

前田慶次、二条城、天守跡

【天守跡】

ご覧の通り現在は、天守が無く跡地で天守台のみである。

慶次「天守が休憩所とは…」

石垣の高さも恐らく城内で最も高さを誇っておるであろう天守台は、
創建当時「望楼型天守」で5重という巨大建築物であったそうじゃ。

然し、創建当時の天守はこの場所ではなく、別の場所に建っておった!
大和郡山城の天守を移築したという話もあり、
徳川家光の時代に改修され淀城に移築されたとか。
天下人の天守を移築するとは、聞いたことがないのう。
また、移築された淀城天守の図面は残っておるらしく復元できるとか?
此れは今後に期待である!

此の地にあった2代目天守は、天下人の城「伏見城」天守を移築改修し
複合式5重5階の巨大天守を建てたそうじゃ。
それも落雷で焼失したそうじゃ。誠に残念極まりない。

慶次「景観が良く京都を一望できる故に、
必ず周辺を見渡し都を体感するが良い!」

天守台を降り、その近くには

前田慶次、二条城、土蔵
 

【重要文化財:土蔵】

強固な白漆喰の倉庫のようなものが見えよう。
此れが土蔵、いわゆる米蔵である!

穀物類を収蔵する他、火薬や武器も取り扱う。
籠城戦の要となるわけじゃ!
斯様な土蔵が嘗ては10棟もあり現在は城内に3棟が現存する。
いずれも大層な大きさを誇っており18間の長さを誇る!

慶次「つまり儂18人分の長さ!(儂の背丈は1間=182㎝)
数多あったわけだで、長期籠城の準備が常にされておったのか」

城に土蔵が残るのは現在二条城のみ! 非常に貴重である!

此の土蔵の目の前には…

前田慶次、二条城、西南隅櫓

【重要文化財:西南隅櫓】

前編の冒頭で登場した西南隅櫓を城内側から確認できる!
通行禁止故に近くまで見る事叶わぬが、家光の改修期に築城されたものである!
現存する隅櫓は、東南隅櫓と合わせて2棟のみ。元々は計9棟あったそうじゃ!

前田慶次、二条城、西南隅櫓
 

【謎の石垣…?】

西南隅櫓、土蔵を抜けて端に注目しておると摩訶不思議な石垣に遭遇。

慶次「怪しい…。加工度合いを考えても古いな」

調べて見ると、こちらは「移築された旧二条城の石垣」
つまり、織田信長様が将軍足利義昭様を守る為に築城した旧二条城時代のものが見られる。
当時は石材不足もあり、石仏を利用したりしたものじゃ。
当時の時代背景が良く分かる石垣である!
二条城の完成された石垣と旧時代の石垣を比較できるのは一石二鳥と言えよう!

前田慶次、二条城、石垣

城内では「化粧」された石垣も多々見られる!
石の表面に加工を施す。
柄のようにも見える此の加工は格式を見せるのによく使われた!

慶次「石垣の加工度合いこそが担当した武士の力量を表す
分かり易い指標の一つであった!」

前田慶次、二条城、埋見門

【皆大好き埋門】

こちら重要文化財の北中仕切門である。
南側に南中仕切門と対になっており
双方共に寛永3年の家光改修時代に築城!

慶次「帝行幸において城郭の守備も格式も高めたわけじゃな!」

特徴は石垣と土塀に囲まれた「埋門(うずみもん)」であったということじゃ。
埋門は囲まれておる故に遠くからは視覚で発見しづらい特性があり、
非常時に逃げる用の門として使われる城郭もあるくらいじゃ。
二条城の場合は鉄板張りで門を敢えて小ぶりにして
鍵口通路にする事で大軍侵入を阻む防御策として建てられたのが分かる!
珍しき門である故に必見である!

門を抜けて「清流園」を歩む。
清流園は現世で作庭された大きな庭であり、二条城の北側大部分を占める。
和洋折衷の庭は多くの観光客を魅了する日本文化の景観が必見!

慶次「江戸時代と現代の庭を見られるのは中々珍しきことであろうな」

前田慶次、二条城、和楽庵

と。清流園を愛でておると、
和楽庵という茶庭が見えた! 何の奇跡か…。

慶次「和楽庵に店を構えるのは茶房前田

二条城で前田の文字を見る事になるとは!
儂も此の喜び!!!
時許せばゆるりと過ごしたいが…
時が無いという事で後ろ髪を引かれながら続いて!!

前田慶次、二条城、北大手門
 
清流園を抜けると北に壮大な門が見えた!
重要文化財「北大手門」である。
大手門故にこちらが本来の正面と思いきや
現在の正面門として利用される「東大手門」の控えの門として機能したそうじゃ!

築城時から北大手門は存在するが、寛永3年の家光時代に改修されたか不明。
東大手門より長さがちぃとだけ小ぶりなようじゃが、高さや奥行きは同じと。
東大手門に比べて装飾も控え目となっておるのが特徴!

慶次「とは申せど、全国的に見れば異常な大きさと格式の高さ!
道を挟んで向かいには京都所司代の屋敷があった故に、
連絡門として使用したと考えると贅沢な使い方じゃ」

して。南に下ると休憩所がある。

前田慶次、二条城、御城印

休憩所にて「御城印」が買え申す!
城巡りの醍醐味である御城印は是非に手にして集めてみてちょ!

二条城を巡り終え我も尾張名古屋へ帰陣すべく京都駅へ向かう。
して、旅の醍醐味であるメシを楽しもうと探す!
此度訪れた店はこちらじゃ!

前田慶次、二条城、つくもうどん

【京都名物つくもうどん】

京都駅で連日行列を成す!と武名を轟かせるつくもうどん塩小路本店殿!
儂が参ったおりも大賑わいで噂通りの人気店に心躍る!!
豊富な料理の数々であるが、京都はうどんが名物として名を馳せておる。
多くの強者が店を連ねる中、絶えぬ行列は地元民に愛されておる証であろう。

前田慶次、二条城、つくもうどん

儂が注文したは「おすすめセットB鶏卵うどん、とり飯」である!

慶次「出汁はいりこ出汁で店内にもその美味し香りが漂い、
待ち遠しい心待ちが高まる高まる!
汁はあんかけが為にふわとろ!で
うどんの麺によく絡み味が口の中に広がる!美味い!!
武士の儂も満足する量の多さも見逃せぬ!」

名古屋に持って帰りたい程、美味しうどんであった!

慶次「名古屋のきしめんと良い勝負じゃ! ワッハハハハハハ」

腹を満たして尾張名古屋へ帰陣!

【まとめ】

此度は遂に「世界遺産」指定を受ける文化財の宝庫にして武家の聖地二条城へ参った。
三編に渡る連載から分かる通り「見所数多」であった!
二の丸御殿は言わずもがなであるが、天守へ繋いだと言われる橋であったり、
天下人が愛でた庭園の造り方は他の城では感じられぬ魅力である!
門一つ取っても、装飾が桁違いの格式! 金箔、彫刻に加え縁起物を飾る!
帝も関わり城らくし改修の意図も他の城に無い点と言える。
正に唯一無二の城郭、それが二条城であろう!
本丸御殿の修復完成も楽しみゆえに再び参りたい次第じゃ!
ほいで、流石は都。物見遊山者が多く、皆の期待が高い観光地の凄みも感じたぞ!
また他の京都の城にも参りたいのう!

ほいで我が残金は569円!

慶次「ん? 569円? これもう何処にも参れぬじゃろ!?
困ったのう。どうしたもんか…。
叔父貴の肩でも叩いて揉んで小遣い稼ぎするか…。
よし。叔父貴からお金を貰おう!」

【御礼】

我が自腹でお城巡りの窮地を救うべく矢銭は
クラウドファンディングにて援軍してくれた
皆々のお陰で多くの城を巡る事が出来申した!
誠にありがとさんじゃ。
城巡りで多くの出会いにも恵まれ、
城郭の事について質問を名古屋城でも多く聞かれるようになり申した。
この先も我が城巡りで城郭の魅力を伝えて参るからのう期待致せ!

次はどこの城へ参るか。
次回の記事も楽しみにしてちょ!

以上
名古屋おもてなし武将隊
天下御免ノ傾奇者 名古屋城検定名誉顧問 城びと連載人
前田慶次郎利益

凸伝令

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執筆・写真/前田慶次(名古屋おもてなし武将隊)

<お城情報メディア 城びと>