【日本100名城・高松城編】瀬戸内の繁栄を見てきた、美しき要塞

港町高松には明治時代に取り壊されるまで、海沿いに白く美しい城が建っていました。そのお城が今回ご紹介する、日本100名城の一つである高松城です。でも実は高松城は、築城当初は城が黒かったと考えられています。なぜ、色が黒から白に変わったのでしょうか?それには、当時日本がおかれていた情勢が深く関わっています。城の色が変わった、そのいきさつに迫ります。



高松城、天守台、玉藻公園
玉藻公園(高松城跡)に残る天守台、隣は鞘橋。かつてこの上に3重の天守がありました。

瀬戸内の旅人を魅了した海城

明治時代、旅行で日本へ訪れた英国人H・ギルマールの日記には、ある城について次のように記されています。「(城は)至る所に草木生い茂り、鳥が巣を作っている。」、この城こそが高松城!

一見穏やかに見える城跡はかつて、要塞であり瀬戸内の海を守っていました。この地は元々、高松平野が背後に控え、対岸の本州にも近い為に交通の要衝でした。

豊臣秀吉による四国平定の後、文禄4年(1596)に生駒親正によって城が築かれました。縄張りには築城の名人として知られる、藤堂高虎の助言があったと伝えられます。後に親正の曾孫にあたる高俊が家督を継ぐと、外祖父である高虎は後見人となったという話が残るほど両者が親しかったようです

江戸時代の初め頃に描かれた「高松城下図屏風」(香川県歴史博物館所蔵)には、城下の賑わいや城の付近を行き来する船が描かれ、その繁栄ぶりが伝わります。海水を外堀に取り入れ、天守を中心にらせん状に縄張りが展開していました。また、城には海岸沿いに築かれた為に舟入が設けられ、大型船を留めさせる港湾機能も持っていました。

ちなみに、城と舟入のセットは三原城(広島県)や今治城(愛媛県)など西国、特に瀬戸内海沿岸のお城によく見られる特徴です。

黒から白へのビフォーアフター!

城の中心である天守には、鞘橋を渡って枡形虎口を進んで入ります。中央にある天守台には、かつて三重の天守が聳えていました。建物が明治期に取り壊された後、跡地には松平家を祀った玉藻神社がありました。現在は、社殿が移転し地元市教育委員会によって、発掘や石垣の調査が行われ整備がされています。調査の成果により、天守には地階が設けられていた事がわかっています。

屏風や取り壊される前に撮られた古写真によると、天守は三重で、一重部分が天守台の天端からはみ出し、最上階も二重部分より大きかった事がわかります。これは南蛮造と呼ばれる構造で、他にも小倉城(福岡県)などに見られます。

古写真等から、天守は壁が漆喰によって白かったと見えますが、屏風では周りの櫓の壁も含めて黒く書き表されています。よって、築城当初の建物は全体的に板張りであった事がわかります。
 
高松城、天守台、礎石、地階
天守台に残る礎石、改修時に地階が設けられたと考えられます。

壁の色が黒から白に変わった理由、それは生駒家から松平家に城主が代わった事が契機でした。

寛永17年(1640)、お家騒動により生駒家は改易になりました(生駒騒動)。その後、讃岐1国は一時期天領になり、2年後に松平頼重が12万石で入り高松藩松平家が成立しました。

生駒時代の城郭からの大改修が始まり、現状で屏風と比較すると、鞘橋が廊下橋となり、櫓が5基増設されています。また改修時を伝える『小神野筆帖』には、当初三重三階だった天守が、地階も含めた内部五階に改装されたとあります。また隅櫓は、通常二重に建てられることが多いですが、高松城の場合どの櫓も三重構造で、他の城と比べて高層に建てられていました。

改修は、寛文11年(1671)から本格的に始まったそうです。

デザインの異なる2つの櫓

次に紹介する2つの三重櫓は、共に延宝4~5年(1676~77)の同時期に竣工しましたが、それぞれ異なる外観が見られます。

現存している櫓のうち、月見櫓は一重目屋根に切妻造と側面に唐破風が飾られています。さらに、窓の上下には黒色のライン(長押)があり、外装が豪壮に見えます。櫓と並んである2つの一階建ての櫓(続櫓と渡櫓)と挟むように、南水手御門が海に向けて建てられていました。この門は、殿様が御座船に乗る時に使用されました。また、2つの平櫓には鉄砲や弓を射る時に使われる挟間や石落としが用いられ、実戦的要素が見られます。

艮櫓は月見櫓より重厚の雰囲気を漂わせています。この櫓は昭和42年(1967)に現在の場所へ移転したもので、本来は城東側の舟入(現・香川県民ホール)にありました。この櫓の場合、外観の飾りが月見櫓と比べて少ないのに対し、一重目に櫓にしては大きすぎる千鳥破風や石落としが見られます。

城主が変わった事で大改修となった背景とは、何だったのでしょうか?

これには、松平家が譜代として四国にいた外様大名と瀬戸内海の航路を抑える目的がありました。頼重が入部した当時、日本では鎖国が完成しポルトガル船の入港が禁止されたことにより、日本と外国の間に緊張関係が走りました。実際に高松藩は、同じ四国にいた今治藩と共に長崎警備にあたっています。

特に月見櫓は別名・着到櫓と呼ばれ、城内においても一番海側に位置していました。この櫓は付近を航行する船の監視の役割も果たしていたのです。

大改造を経て、漆喰で覆われた白い天守と三重の櫓群が出現しました。それは洋上からは美しく見えまたしたが、一方で城からすれば、要塞として瀬戸内を行き交う船を常に見守っていました。

現在三の丸跡に、城内にあった披雲閣が大正期12代当主重寿によって再建され、各種イベントに利用されています。

 高松城、月見櫓、続櫓、南水ノ手門、渡櫓
現存する月見櫓(着到櫓)、奥から続櫓・南水ノ手門・渡櫓。奥の道路を挟んで、海が広がります。

艮櫓、高松城、舟入
移築された艮櫓、かつては舟入があった場所に建てられていました。

四国平定後の天正16年(1588)に、生駒親正によって海沿いに築城。生駒家に代わって入った松平頼重によって大改修を受けた結果、三重五階の天守を中心に三重の櫓が建ち並ぶ城郭に。

形式  :平城(海城)
場所  :香川県高松市玉藻町(現・玉藻公園)
アクセス:JR高松駅下車、徒歩5分。琴平電鉄 高松築港駅下車すぐ。

執筆/福永素久(ふくながもとひさ) 
1981年生、徳島県出身九州在住の城郭ライター。雑誌『歴史群像』「戦国の城」コーナー(学研プラス)・論文などに多数執筆。過去に徳島県中世城館調査の調査員や歴史研究を進める一方で、各地で城郭関連講座の講師などを勤める。相撲観戦が趣味。

※歴史的事実や城郭情報などは、各市町村など、自治体や城郭が発信している情報(パンフレット、自治体のWEBサイト等)を参考にしています

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