かきおかじょう

柿岡城

茨城県石岡市


旧国名 : 常陸

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柿岡小学校北端と案内板
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カズサン

八田知家子息時家の築城にて現柿岡小学校 (2024/11/10 訪問)

 柿岡小学校周辺が鎌倉殿13人で活躍した八田知家の子息時家が築城した柿岡城にあたり、時家の家系は後に柿岡氏を名乗り約300年に渡りこの地を治めた。(案内板による)

 小田城を終えて陽も有り近くの未踏の城は?と、石岡城と柿岡城に当たり宇都宮への地道帰路を考えて北東約12km程の柿岡城を選択、ナビに柿岡小学校北側の案内板辺りを定めて進行、割と近く案内板の処に着きました、北側の土手法面は城塁を彷彿させます、北側を撮影して、案内板横に駐車場の指示板、従って旧柿岡中学校校門門柱を入り指定駐車場で無い石岡市農村高齢者センター東前の駐車場を利用。
 城名石碑、土塁跡、堀跡を求めて柿岡小学校へ、西校門が開いており少し中に入って様子を窺うが良く分からない、丸の内稲荷神社が校内に在り参拝、校門を出て南へ草刈された状態の土塁が有り南に伸びて居るが、保育園のフェンスが近接して入り込めない。
 南側に参り込めないので西に大きく回って、石岡市高齢者センタ、やさと中央保育園西側の大駐車場から南へ南は崖に成っていて、南西方向へ目を凝らし空堀跡を追うが樹木が茂り良く分からない。
 南北に残る土塁はやさと中央保育園の西側のフェンス越しに眺めるが東フェンス近接の土塁を確認するが微かな確認。
 見張台が在ったと言う諏訪神社へは行きませんでした。

 その後柿岡城・柿岡氏は勢力を増した佐竹氏配下へ、佐竹氏秋田へ転封後、江戸期春日局の子・稲葉正勝の所領となって柿岡藩が置かれたが間もなく正勝が小田原藩主に転じて柿岡藩は廃された。(案内板による)

 柿岡小学校周辺の丘陵端が城跡であった事は周辺の土手法面などでそうであろうと納得。

 地道を約50km程北西に少し細い山道も有りましたが、以前訪ねた草壁城、久下田城、桜町陣屋の横を通り寄った事を思い出しながら無事に孫達の居る宇都宮へ到着約2時間弱程。
  

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肉球

鎌倉時代から幕末まで使われたようです (2023/06/29 訪問)

鎌倉幕府成立の頃、八田知家の息子時家(時知ともいう)によって築かれ柿岡氏を名乗ったようです。
城跡主要部は柿岡小学校になっています。
城域の東端に諏訪神社が築かれ現在も残されています。
小学校の北側や諏訪神社の北側は窪地になっており堀跡かと思われます。
柿岡氏の後佐竹氏の家臣が城主となり江戸時代には立花宗茂の弟直次が五千石で稲葉正勝も五千石で入封したが
それぞれ転封されると幕府の直轄地として代官が派遣されたようです。

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赤い城

高友古館 茨城県石岡市 (2021/08/01 訪問)

全国的にも珍しい前方後方墳の丸山古墳を郭として利用。
丸山古墳への道は離合も難しいですがほぼ対向車は来ません。
数台駐めれる駐車場があります。
古墳推しで城の説明はありませんが見ればすぐに常陸の佐竹の城郭であることがわかります。
堀底道を一周、横矢もかかり見応えはあります。
佐志能神社との関わりがあるようですが詳細はわかりません。
行く価値はあると思います。

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赤い城

柿岡小学校 (2021/08/01 訪問)

あれっ!まさかの一番槍。
柿岡小学校が城址です。
小学校の前に説明板があります。
遺稿は小学校奥、保育園の間に土塁が、その先に堀が残ります。
土塁上にも登れますが平日、学校がある日は注意が必要かも。
隣プールだし。
そのプール脇、小学校敷地内には稲荷神社が建っています。
築城は八田時家といわれ、戦国期には佐竹氏のものにもなっています。
江戸時代には代官陣屋になっていたそうですが遺稿は前述の部分のみのようです。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 柿岡時家
築城年 建久3年(1192)
主な城主 柿岡氏、梶原氏、真壁氏、長倉氏、国分氏、立花氏、稲葉氏
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財 市史跡(柿岡城址)
再建造物 石碑、説明板
住所 茨城県石岡市柿岡(柿岡小学校)
問い合わせ先 石岡市生涯学習課
問い合わせ先電話番号 0299-43-1111