柿岡小学校周辺が鎌倉殿13人で活躍した八田知家の子息時家が築城した柿岡城にあたり、時家の家系は後に柿岡氏を名乗り約300年に渡りこの地を治めた。(案内板による)
小田城を終えて陽も有り近くの未踏の城は?と、石岡城と柿岡城に当たり宇都宮への地道帰路を考えて北東約12km程の柿岡城を選択、ナビに柿岡小学校北側の案内板辺りを定めて進行、割と近く案内板の処に着きました、北側の土手法面は城塁を彷彿させます、北側を撮影して、案内板横に駐車場の指示板、従って旧柿岡中学校校門門柱を入り指定駐車場で無い石岡市農村高齢者センター東前の駐車場を利用。
城名石碑、土塁跡、堀跡を求めて柿岡小学校へ、西校門が開いており少し中に入って様子を窺うが良く分からない、丸の内稲荷神社が校内に在り参拝、校門を出て南へ草刈された状態の土塁が有り南に伸びて居るが、保育園のフェンスが近接して入り込めない。
南側に参り込めないので西に大きく回って、石岡市高齢者センタ、やさと中央保育園西側の大駐車場から南へ南は崖に成っていて、南西方向へ目を凝らし空堀跡を追うが樹木が茂り良く分からない。
南北に残る土塁はやさと中央保育園の西側のフェンス越しに眺めるが東フェンス近接の土塁を確認するが微かな確認。
見張台が在ったと言う諏訪神社へは行きませんでした。
その後柿岡城・柿岡氏は勢力を増した佐竹氏配下へ、佐竹氏秋田へ転封後、江戸期春日局の子・稲葉正勝の所領となって柿岡藩が置かれたが間もなく正勝が小田原藩主に転じて柿岡藩は廃された。(案内板による)
柿岡小学校周辺の丘陵端が城跡であった事は周辺の土手法面などでそうであろうと納得。
地道を約50km程北西に少し細い山道も有りましたが、以前訪ねた草壁城、久下田城、桜町陣屋の横を通り寄った事を思い出しながら無事に孫達の居る宇都宮へ到着約2時間弱程。
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