陸前宮沢城からの転戦です。本丸にあった栗原市立高清水中学校は統合によって廃校となっており、2024年には校舎解体が始まって現在は更地になっています。校歌歌碑が校門跡の脇に建っていました。外濠跡は外濠公園として整備されています。
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2025/05/09 07:08
2020/11/10 11:31
朝田辰兵衛さん心遣いありがとう/高清水要害として明治まで残る (2020/10/26 訪問)
朝田辰兵衛さんお心遣いありがとうございます。熊情報、R113情報有難うございました、結局4泊5日の下越、奥州の城廻りは最後の5日目のみ晴天、後は雨が止んだり降ったり、しかし素晴らしい紅葉、各所の景観を堪能しました走行距離約2000km程。
奥州市の豊田館を終えて南方約90km程先の高清水城を目指す、水沢ICから東北道へ築館ICを降りR4号線南下途中で県道1号線に入り目的の高清水城、高清水中学校西校門前に到着、車は3時を過ぎてましたので校門前の空き駐車エリアに停める。
城址は高清水中学校に成ってます、校門左右が土塁跡、南側土塁に高清水城の案内解説板が有り、ロープが張って有りましたが校門の内側直ぐ傍に城名石碑が立ってる、北側にプールを過ぎて西に本丸土塁跡、その北に東西に延びる外濠が外濠公園として管理保全されてる。
歴史的には大崎氏一族の城で秀吉奥州仕置きにより大崎氏改易、大崎・葛西一揆を経て伊達領へ伊達氏一門が高清水要害を明治まで継承。
詳細説明は地元先達のぎりょうさんの投稿をお読みください。
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2020/09/27 14:52
中世城館から藩政時代の要害と長い歴史を持つ高清水城 (2020/09/27 訪問)
高清水城は天文年間(1532~1555)に奥州探題大崎氏の一族である高泉直堅による築城記録を持つ。天正18年、豊臣秀吉による奥州仕置により大崎氏・葛西氏は改易となり、その後、葛西・大崎一揆後この地は伊達領となり、高清水要害として御一家の亘理氏、石母田氏が配され明治維新を迎える。
城址は宮城県栗原市高清水(旧高清水町)の市街地、旧奥州街道(旧国道4号線)から東側に入った高清水中学校の場所が本丸跡地。その北側・西側に二ノ丸を配し水掘りで囲んだ構造であった。現在は二ノ丸北側の東西に延びた堀跡が「外濠公園」として保存されている。
陸軍省城絵図(富原文庫蔵)掲載の「高清水要害地」絵図には本丸三階櫓(兵具倉)や本丸広間・門・堀などの記載が有り、現状の遺構の存在に興味を持ち訪問したが、本丸跡と二ノ丸堀跡にわずかに土塁を残すのみ。外濠公園横の第十区集会所桜館の駐車場が近い。
蛇足ながら「陸軍省城絵図」は明治5年時点の全国の城館(江戸期に活用されていたものの一部)を陸軍省が再活用の目的で調査して図面化したものです。
藩政時代の縄張図の残らない城館の掲載もあります。また明治廃城後の様子も窺える資料です。城びと必見の資料ですね。
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分類・構造 | 平城 |
---|---|
築城主 | 高泉直堅 |
築城年 | 天文年間(1532〜1555) |
主な城主 | 木村氏、亘理氏、石母田氏 |
遺構 | 曲輪、土塁、横堀跡 |
再建造物 | 石碑、説明板 |
住所 | 宮城県栗原市高清水東館他 |