たかしみずじょう

高清水城

宮城県栗原市

別名 : 高泉城、鬼ヶ城、高清水要害
旧国名 : 陸奥

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校門南土塁、案内解説板が建
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カズサン

朝田辰兵衛さん心遣いありがとう/高清水要害として明治まで残る (2020/10/26 訪問)

 朝田辰兵衛さんお心遣いありがとうございます。熊情報、R113情報有難うございました、結局4泊5日の下越、奥州の城廻りは最後の5日目のみ晴天、後は雨が止んだり降ったり、しかし素晴らしい紅葉、各所の景観を堪能しました走行距離約2000km程。

 奥州市の豊田館を終えて南方約90km程先の高清水城を目指す、水沢ICから東北道へ築館ICを降りR4号線南下途中で県道1号線に入り目的の高清水城、高清水中学校西校門前に到着、車は3時を過ぎてましたので校門前の空き駐車エリアに停める。

 城址は高清水中学校に成ってます、校門左右が土塁跡、南側土塁に高清水城の案内解説板が有り、ロープが張って有りましたが校門の内側直ぐ傍に城名石碑が立ってる、北側にプールを過ぎて西に本丸土塁跡、その北に東西に延びる外濠が外濠公園として管理保全されてる。

 歴史的には大崎氏一族の城で秀吉奥州仕置きにより大崎氏改易、大崎・葛西一揆を経て伊達領へ伊達氏一門が高清水要害を明治まで継承。

 詳細説明は地元先達のぎりょうさんの投稿をお読みください。

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ぎりょう

中世城館から藩政時代の要害と長い歴史を持つ高清水城 (2020/09/27 訪問)

高清水城は天文年間(1532~1555)に奥州探題大崎氏の一族である高泉直堅による築城記録を持つ。天正18年、豊臣秀吉による奥州仕置により大崎氏・葛西氏は改易となり、その後、葛西・大崎一揆後この地は伊達領となり、高清水要害として御一家の亘理氏、石母田氏が配され明治維新を迎える。
城址は宮城県栗原市高清水(旧高清水町)の市街地、旧奥州街道(旧国道4号線)から東側に入った高清水中学校の場所が本丸跡地。その北側・西側に二ノ丸を配し水掘りで囲んだ構造であった。現在は二ノ丸北側の東西に延びた堀跡が「外濠公園」として保存されている。
陸軍省城絵図(富原文庫蔵)掲載の「高清水要害地」絵図には本丸三階櫓(兵具倉)や本丸広間・門・堀などの記載が有り、現状の遺構の存在に興味を持ち訪問したが、本丸跡と二ノ丸堀跡にわずかに土塁を残すのみ。外濠公園横の第十区集会所桜館の駐車場が近い。

蛇足ながら「陸軍省城絵図」は明治5年時点の全国の城館(江戸期に活用されていたものの一部)を陸軍省が再活用の目的で調査して図面化したものです。
藩政時代の縄張図の残らない城館の掲載もあります。また明治廃城後の様子も窺える資料です。城びと必見の資料ですね。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 高泉直堅
築城年 天文年間(1532〜1555)
主な城主 木村氏、亘理氏、石母田氏
遺構 曲輪、土塁、横堀跡
再建造物 石碑、説明板
住所 宮城県栗原市高清水東館他