くりのじょう

栗野城

鹿児島県姶良郡

別名 : 松尾城
旧国名 : 大隅

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①	麓より松尾城を見上げる
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トク

81【関ケ原の26人】 (24) 島津義弘 (島津義弘と松尾城(栗野城)) (2023/10/17 訪問)

(24人目)島津義弘の続き⑩です。
根白坂の戦いに敗れ豊臣秀吉に降伏した義弘は、1590年日向の飯野城からここ大隅の松尾城(栗野城)に居を移します。そして秀吉に臣下の礼をとり、ここから秀吉の命により朝鮮へ出兵します(文禄の役)。

前々回の「えびの駅」からJR吉都線・肥薩線直通の隼人行に乗り「栗野駅」(くりの)で下車しました。駅から徒歩で20分の所に松尾城(栗野城)はあります。川内川を天然の要害とする標高249mに築かれた山城です(写真①)。町の名前は湧水町。歩いていると名の如く、あちこちからきれいな地下水が湧き出ていて、町民の方々は当たり前のように水を汲みに来ていました。ここに住みこの水を毎日飲めば何だか長生きできそうな・・・🤔

復元された大手門(写真②)をくぐると、城壁には朝鮮出兵の様子が描かれていました(写真③)。義弘は初めて海外へ行く事に不安がっている兵士たちを鼓舞するためのお祭り(出陣式)を開き、その様子を描いたもののようです。

そこから階段を登った所が本丸です(写真⑤)。城跡碑と説明板があり当時の様子を伝えていました(写真④⑥)。ここは江戸期以前の島津の城にしては珍しく、本丸には石垣がありました(写真⑦)。本丸以外はシラスの土造りなので、石垣とシラスを併用した島津の城は、おそらくここだけかもしれません。

秀吉に臣下の礼を尽し朝鮮へ出兵する義弘に対し、兄の義久はこの出兵に非協力的で、名護屋で再三要望するも、船を用意しようとしません。これで義弘は朝鮮に渡海できず遅参するという大失態を演じ、義弘は露骨に兄義久への不満をぶちまけ、兄弟の間に一時溝ができてしまいます。義久はなぜ船を送れなかったのでしょうか? 薩摩ではこの時いったい何が起きていたのでしょうか? (この理由は25人目で)

そして義弘は、朝鮮から帰国後、ここから南の帖佐に館を建て移り住みます。そして秀吉から信頼され薩摩17代当主に任ぜられます。しかし表向きは受けるも、実際は義久が当主のままだったようです(でも義久もこれには怒ったはず)。そしていよいよこの兄弟の溝が埋まらぬまま関ケ原を迎えてしまいます。この先の関ケ原でも、義久はやはり軍勢を送りません。義弘はこのまま兄から見捨てられてしまうのでしょうか?

私は、本丸から城下や川内川を眺め考えてみました(写真⑧)。兄の援護がないままわずかな手勢で朝鮮へ出兵し、それなりの戦果を上げる事はできました(文禄の役)。しかし最愛の長男久保(ひさやす)が朝鮮にて病死してしまいます。兄との溝ができ、長男も失い、孤立してしまった義弘はどんな思いでこの城下や川を眺め、そして帖佐へ移る決断をしたのでしょうか? しかしその帖佐から再び義弘は朝鮮へ渡る事になります(慶長の役)。

次は、関ケ原当時の居城(帖佐館)を訪れます。


【余談】西郷隆盛と栗野
この栗野駅からほど近い所にある栗野岳温泉は、西郷隆盛が西南戦争が始まる一年前に過ごしていた場所だそうです。毎日野山を駆けまわったりして、とてもよい場所だと友人に語るほど、大変気に入っていたとか。しかし明治9年、廃藩置県と廃刀令により不平不満の士族があふれ、これを何とか静めるため、ここから鹿児島城へ向かう事になります。ここ栗野は西郷隆盛が人生を最後に楽しんだ場所だったのかもしれません(写真⑩)。
 

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カズサン

鹿児島で唯一石垣を用いた義弘の山城 (2016/10/25 訪問)

 鹿児島県湧水町に在る島津義弘在城の山城で大手虎口に石垣が用いられてる鹿児島では珍しい山城です。
 湧水町から吉松町人吉に向かう国道268号線沿いの川内川沿いに城跡の道標が有り山手に向かって行くと本丸横に大型駐車場が有る、大手入口に冠木門風の新しい城門、本丸大手枡形虎口は石垣の階段状虎口で本丸へ、本丸からは川内川がくねった栗野市街が見渡せる、堀切を挟んで二の丸と続き幟旗は島津義弘を大河にと大書きされてる。
 栗野町には40数年前から仕事で訪ねてるのですが地元メンバーも城には関心が無く私も時間を取って登城する事も無く退職してからやっと初登城しました。

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織田晃司

島津義弘 (2019/07/25 訪問)

島津義弘が居城とした時期のある城。
模擬門と意味不明な土塀はよくわかりませんが…

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todo94

大晦日の攻城 (2016/12/31 訪問)

南九州の城の特徴、切り立った空堀で郭が隔てられているが、南九州の山城では唯一、本丸の桝形虎口が石垣で築かれている。本丸には建物の礎石も残っているが、島津義弘がこの城から朝鮮へと出兵していった歴史を持つ城なら十分に納得できる。島津義弘が主人公の大河ドラマができたら間違いなく紀行で取り上げられることだろう。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 不明
築城年 南北朝時代
主な改修者 島津義弘
主な城主 北原氏、島津義弘
遺構 曲輪、石垣、横堀(空堀)、枡形虎口
再建造物 冠木門、碑、説明板
住所 鹿児島県姶良郡湧水町木場
問い合わせ先 湧水町栗野庁舎
問い合わせ先電話番号 0995-74-3111