堂崎城は南北朝時代から室町時代にかけ、この地に勢力を広げた天草氏の一族・長島氏によって築かれたとされています。天文23年(1554)長島但馬守鎮真の時代に相良氏に追われ、薩州島津氏を頼って出水に逃れ、その後堂崎城には天草越前守が入りました。
永禄8年(1565)堂崎城は野田の島津常陸真美忠兼の攻撃を受け、天草の志岐・栖本氏も島津に加勢したため堅城の堂崎城もついに落城し、天草越前守も切腹して果てました。堂崎城を落とした忠兼も、3ヶ月後の7月8日に出水の島津義徒らによって謀殺され、翌年野田・長島で悪疫が大流行したため、人々は忠兼の祟りとして怖れ、汐見と堂崎城址に若宮神社を建立し、命日に踊り(お八日踊り)を奉納するようになったそうです。
かつての堂崎城は4の区画に分けられ、麓の城川内川の外側が「本馬場」内側・城内側が「内馬場」海に突き出た丘陵上の東側が「御城内」西の丘陵先端側が「本丸」で若宮神社が祭られていて南に土塁が残っています。本丸西側、丘陵先端にも区画があり、その先は海に通じていますが覗き込んでいません。
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