むかさじょう

穆佐城

宮崎県宮崎市

別名 : 六笠城、穆佐院高城、高城
旧国名 : 日向

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主郭周辺
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しんしんちゃん

3日に一度は玄米で。じゃなく城域全体に郭と防御設備を配した城。 (2023/01/08 訪問)

穆佐城は伊東氏の城で四十八城の一つです。
古くは南北朝時代に松尾城の土持氏がこの城を攻めたという
記録があり、後に伊東氏と島津氏で、この城を
奪い合い、最終的に島津氏の城になりましたが
慶長20年(1615)の一国一城令により廃城となりました。
城域は広く、全体に郭が配され中央の主郭の西側には大きな堀切があります。
私が訪れた際には東の登城口から主郭周辺までは良く
整備が行き届いておりました。西側のCの郭の周辺あたりは
いささか雑草が成長してましが、西に抜けると北側には
出丸があり、なぜかビタミンの父・高木兼寛氏の銅像と案内板があります。
ビタミンB1には脚気を防ぐ効果があって玄米やそばに含まれているそうです。
江戸で庶民が白米を食べるようになり、将軍病と言われた脚気がはやった際に
そばが脚気に効くと評判になり、そばを食べるようになったといわれています。
そんな江戸時代の知恵も高木氏の功績も日露戦争に生かされず多くの
兵士を脚気で失ったのは痛恨の限りです。
話がそれましたが、この地域には珍しい縄張りの
非常に堅固な城だと思いました。

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カズサン

大堀切が凄い保全良く推薦の群郭式平山城です (2020/11/22 訪問)

 早朝に宮崎城を探訪し地道を通って鶴丸城御楼門と九州未踏の城廻り第5城目穆佐城を目指す、ナビは宮崎県宮崎市高岡町小山田973の元穆佐小学校体育館校庭に在る穆佐城跡ガイダンス施設を訪ねる。駐車場、トイレは問題無し。(ガイドは城郭放浪記さん情報)
 当日は日曜日で9時半着担当の方が開ける直前でした、縄張り図と若干説明を頂き登城、ガイダンス施設は土日祝10時から15時の開館です。
 ガイダンス奥から即登城路、縄張り図によると曲輪群がA、B、C、Dと在りBの主郭曲輪群、Aの戦闘曲輪群は草が刈られ見学探訪可能、他は未整備でお薦めして無い旨の説明有り。
 神社南横の道を入り前面に広いB曲輪群手前に島津忠国誕生の地と有る曲輪、雛壇上の曲輪が主郭に向かって連なってる、その北にA曲輪群が聳えてる、その間が大堀切(最初気付かず広い道と思っててのですが跡から戦闘用の曲輪群Aから見下ろすと大堀切と分かった次第)、大堀切南土塁を登り通って最大の広さを誇る主郭へ、主郭は2段に成ってる、西奥に土塁が有りその下はC曲輪群との大堀切土塁より覗くと高さと広さを実感するが草木が茂り良い写真が撮れない、主郭南からせめて大堀切を見たいと道を探すが藪とか草が茂り土砂崩れとのメッセージにて引き返し、A曲輪群の戦闘曲輪を探訪、B曲輪群より高く大堀切を挟んでA曲輪群の横矢を担当するエリア、見晴らしも良く物見の役割も十分、そこも曲輪が分かれており曲輪、小堀切が充分堪能させてくれる。
 全体では有りませんがよく整備され歩きやすく比高も低くよく遺構残って居りガイダンスも有り大変探訪しやすい城跡です是非お訪ねになってみて下さい。

 歴史的には南北朝の動乱伊東氏、肝付氏の攻防、足利尊氏の命で畠山直顕が穆佐城に入るも島津氏との攻防で島津氏の城へ島津氏8代当主忠国誕生応永10年(1403年)、伊東氏島津氏の攻防が続き取ったり取られたり、文安2年(1445年)から伊東氏支配が約130年続き、天正5年(1577年)より島津氏支配、元和の一国一城令で廃城。

 終わって保存会の方が草刈りされてたので話を伺う、大変感謝ですお礼を言ってガイダンスへここでも担当の方と話を伺い説明を受け資料も頂き話も弾み正午のサイレン、大変お世話に成り有難うございました。
 車でGoToクーポン券で買った昼飯を食べ都城市へ出発。

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todo94

国史跡の城 (2017/03/11 訪問)

大分整備が進められて見学しやすくなっていました。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 足利尊氏
築城年 元弘年間(1331〜1334)
主な城主 畠山氏、島津久豊、土持氏、伊東氏、樺山則久(島津氏家臣)
廃城年 元和元年(1615)
遺構 曲輪、切岸
指定文化財 国史跡(穆佐城跡)
再建造物 碑、説明板
住所 宮崎県宮崎市高岡町小山田字麓
問い合わせ先 宮崎市教育委員会文化財課
問い合わせ先電話番号 0985-21-1836