波川玄蕃城からの転戦です。城山公園駐車場(33.494264、133.416360)に駐車しました。
築城年代は定かではないようですが、1170年(嘉応2年)頃に、平氏の家臣・近藤家綱が平氏荘園の守護として蓮池城を築き、蓮池姓を名乗ったそうです。
1182年(寿永元年)蓮池家綱は平田俊遠とともに、平家打倒の兵を挙げた源頼朝の弟源希義を年越山で討ちとったが、まもなく伊豆右衛門有綱と夜須行宗によって攻められ討たれました。
1192年(建久3年)藤原国信が蓮池城を居城として大平氏を名乗り、以降大平氏の代々の居城となりました。
1508年(永正5年)大平元国は本山氏・吉良氏・山田氏などと岡豊城の長宗我部兼序を攻め敗死させました。
天文年間(1532年〜1555年)になると一条氏が津野氏に攻め込み、1543年(天文12年)一条房基は津野基高と戦います。
大平氏は本山氏とともに津野氏に援軍を送りますが、1546年(天文15年)大平氏は中村城一条氏に破れ蓮池城を失いました。
1557年(弘治3年)南土佐に進出してきた本山茂辰は、森山城・秋山城を攻略して仁淀川を渡り蓮池城をも奪いました。
1560年(永禄3年)本山茂辰は長宗我部元親と争うとその隙を付いて、一条氏が蓮池城を取り戻しました。
1569年(永禄12年)吉良城主吉良親貞が計略をもって蓮池城を奪い、戸波城へ逃れた城兵を追って戸波城をも落としました。
蓮池城は吉良親貞に与えられ、子の吉良親実が城主となりますが、吉良親実は戸次川合戦で討死した長宗我部信親の後継争いで盛親の家督相続に反対し、元親の怒りをかって比江山親興とともに自刃させられました。
長宗我部氏は四国の覇者となりますが、豊臣秀吉による四国征伐に破れて土佐一国に減知され、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いでは西軍に付き、土佐に生還したが、改易されました。
1601年(慶長6年)山内一豊の入国のころ、廃城となりました。
本丸跡は城山公園として整備され、階段近くに「蓮池城趾」の石碑が建てられ、西端に蓮池家綱を祀る蓮池神社がありました。
消防署近くの城山公園駐車場に駐車しましたが、公園まで思っていた以上に距離がありました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=戸波城に向かいます。
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