もとしのじょう

本篠城

香川県三豊市

別名 : 財田城
旧国名 : 讃岐

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登城口
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赤い城

橘城 香川県三豊市 (2026/02/01 訪問)

本篠城を降りてこちらへ、城びと未登録の城です。
総合運動公園の駐車場に車を置き、登城口の説明板横の登城路を登ります。
数分で主郭へ到達、主郭には神社が鎮座します。
この開口部は本来の虎口ではないようです。
このそばには北側の虎口はありますが。

曲輪は高い土塁で囲まれ、東側に虎口があります。
南側には櫓台があり、その先にも曲輪が配置され、竪堀も見られます。
一旦土塁上に戻り、西側へ。
西側には二本の尾根に曲輪が配置されています。
横堀や竪堀も備え、コンパクトながらも見応えある城でした。

【見どころ】
 ・主郭を囲む土塁
 ・西側の曲輪や竪堀

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赤い城

阿波から讃岐への要衝の地 (2026/02/01 訪問)

城跡までの道路には案内板があり、それに沿って進むと神社前に説明板が立っています。
城跡はここからさらに先にあります。
竜王神社近くの広くなったスペースに車を置きます。

少し入ったところに石碑と説明板があり、その背後から登ります。
急坂で一見道がなさそうですが少し登るとわかりやすく道がついています。
登城路に沿って竪堀が落ち、さらに登ると堀切がありました。
主郭はもう少し登った場所にあります。
虎口を経て主郭へ、横に長い形でした。
さらに進み二郭へ降ります。
二郭の突出部の下に竪堀が見えます。
ここからさらに降りて堀切と竪堀を見学。
ここの堀切は岩盤を削ったものでした。

香川氏配下の財田氏の居城、長宗我部氏の讃岐攻めで落城しました。
竪堀が多用されているのは長宗我部氏の改修によるものかと思われます。
あと、車を置いた竜王神社には伯母淵があり天然の堀となっています 
落城の際に城主の妻や伯母が身を投げた、と伝わっています。

【見どころ】
 ・登城路に沿った竪堀
 ・南側の竪堀
 ・伯母淵

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:本篠城 (2022/07/25 訪問)

大西城からの転戦です。竜王神社向かい空スペース(34.103461、133.786200)に路駐し、登城口(34.103254、133.785297)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、財田氏によって築かれたと云われています。
南北朝時代の1337年(建武4年・延元2年)には財田合戦があり、南朝方で阿波の小笠原義盛が財田を拠点として北朝方と戦ったそうです。
天正年間(1573年〜1592年)の城主は財田和泉守常久で天霧城主の香川氏に属していました。 長宗我部元親は藤目城の斎藤氏を一旦は降したが、十河存保に藤目城を奪い返されてしまいます。
1578年(天正6年)土佐軍は5,000の兵を率いて本篠城を取り囲みます。籠城する兵は財田常久をはじめわずか200だったそうです。
常久は天霧城の香川氏に再三援軍を求めたが、香川氏は援軍を派遣せず、常久は城から打って出て土佐軍の横山源兵衛に討たれました。
その後は、長宗我部氏の家臣中内藤左衛門が城主となりましたが、豊臣秀吉の四国征伐で城を棄てて土佐へ逃れ廃城となりました。

登城口に説明板と石碑があり、その脇から山道が主郭へ通じています。
右ひざ痛の為、登城口で引き返しました。
財田和泉守常久の墓の道標(34.105031、133.782984)がここにあり、この道を下っていくと民家の裏側の畑脇に御堂があるようです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=丸山城に向かいます。

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todo94

昨日の攻城4 (2018/01/27 訪問)

10時台の攻城。城より大分手前の神社にある説明板に惑わされ、ちょっと迷ってしまいました。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 小笠原義盛
築城年 南北朝時代
主な城主 財田氏(香川氏家臣)
遺構 曲輪、土塁、堀切、石積、横堀(空堀)、のろし台
指定文化財 市史跡(本篠城址)
再建造物 石碑、説明板
住所 香川県三豊市財田町財田中
問い合わせ先 三豊市教育委員会生涯学習課
問い合わせ先電話番号 0875-62-1113