大西城からの転戦です。竜王神社向かい空スペース(34.103461、133.786200)に路駐し、登城口(34.103254、133.785297)に向かいました。
築城年代は定かではないようですが、財田氏によって築かれたと云われています。
南北朝時代の1337年(建武4年・延元2年)には財田合戦があり、南朝方で阿波の小笠原義盛が財田を拠点として北朝方と戦ったそうです。
天正年間(1573年〜1592年)の城主は財田和泉守常久で天霧城主の香川氏に属していました。 長宗我部元親は藤目城の斎藤氏を一旦は降したが、十河存保に藤目城を奪い返されてしまいます。
1578年(天正6年)土佐軍は5,000の兵を率いて本篠城を取り囲みます。籠城する兵は財田常久をはじめわずか200だったそうです。
常久は天霧城の香川氏に再三援軍を求めたが、香川氏は援軍を派遣せず、常久は城から打って出て土佐軍の横山源兵衛に討たれました。
その後は、長宗我部氏の家臣中内藤左衛門が城主となりましたが、豊臣秀吉の四国征伐で城を棄てて土佐へ逃れ廃城となりました。
登城口に説明板と石碑があり、その脇から山道が主郭へ通じています。
右ひざ痛の為、登城口で引き返しました。
財田和泉守常久の墓の道標(34.105031、133.782984)がここにあり、この道を下っていくと民家の裏側の畑脇に御堂があるようです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=丸山城に向かいます。
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