いわくらじょう

岩倉城

徳島県美馬市


旧国名 : 阿波

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登城口
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赤い城

脇城と連携し機能していた (2024/03/03 訪問)

県道12号線に案内板があり、北に入り細い道を進みます。
途中いくつか案内板があるので迷わず駐車スペースへ辿り着けます。
そこから先は徒歩で。
少し登ると二郭に着きます。
二郭は墓地で古い石塔が並んでいます。
北に曲輪が連なっているようですが藪で断念、主郭に向かいました。
二郭と主郭の間には深い堀切が残っています。
堀切の奥には腰曲輪もありました。
登城路自体も腰曲輪なのでしょう。
主郭へは坂虎口となっていました。
主郭には説明板が立っています。

阿波九城の脇城とは距離も近く、連携した対の城でした。
現在残るのは主郭周辺のみですが当時はもっと大規模な城だったようです。

この後脇城に向かいましたが、その前に散策したうだつの町並みも風情があってよかったです。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:岩倉城 (2022/07/21 訪問)

重清城からの転戦です。城址入口付近(34.073732、134.131645)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、1267年(文永4年)三好郡領平右馬頭盛隆が叛乱したとき、阿波国守護小笠原長房はここに城を築いて盛隆を平定したといいます。
永禄年間(1558年〜1570年)には三好康長が岩倉城を築いて嫡子三好徳太郎康俊が城主となりました。
1578年(天正7年)康俊は脇城主武田信顕とともに長宗我部元親に降り、脇城外に三好方をおびき寄せ奇襲して勝利しました。
1582年(天正10年)三好方の説得に応じて再び三好氏に従ったが、同年阿波を攻略した長宗我部氏は脇城も攻略して岩倉城にも攻め寄せ、康俊は降伏開城して逃れたとも討死したとも云われています。
豊臣秀吉の四国征伐で再び豊臣秀次等によって攻められ落城しました。
1586年(天正14年)蜂須賀家政が阿波国に18万石で入国後は、脇城は阿波9城(一宮城・撫養城・西条城・川島城・大西城・海部城・牛岐城・脇城・仁宇城)の一つとなりました。
阿波9城も1615年(慶長20年)の一国一城令により、1638年(寛政15年)に破却され、廃城となりました。

本丸の北側(本丸と2郭間)に堀切があり、その北側は墓地になっています。
本丸の南側に説明板と城主の墓がありました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=脇城に向かいます。

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todo94

脇城の対 (2014/10/11 訪問)

脇城の対の城と云った場所に位置するのは岩倉城。長宗我部元親の侵攻で脇城と共に落城し、蜂須賀氏入封で脇城が阿波九城となり廃城の道を辿る。

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淀城一口城主

三好康俊の居城 (2018/02/03 訪問)

12号線沿いから案内板が続くので、迷わずたどり着けます。
本曲輪跡に、コンクリート造の構築物があり、興ざめです。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 小笠原長房
築城年 文永4年(1267)
主な城主 三好氏
遺構 曲輪、堀切
再建造物 説明板
住所 徳島県美馬市脇町田上
問い合わせ先 美馬市教育委員会
問い合わせ先電話番号 0883-63-2177