ごほんがだけじょう

五品嶽城

広島県庄原市

別名 : 五本竹城、世直城
旧国名 : 備後

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Ⅰ郭天守台。写真上方にもう一段上の石垣
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みんなの口コミ

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意地で畝状竪堀を探した (2024/02/24 訪問)

ぴーかるさんの登城の1ヶ月半後の登城。國重さんが「土塁の先の石積み。右側はとても急です。滑り落ちないように・・・」と書いてくれていた、Ⅴ郭の石垣。いいアングルを求めて、きっちり、滑り落ちました。その後、Ⅰ郭で、天守台の石垣がセットバックして二段になってるのに気付き、とても楽しい。
Ⅰ郭の背後の連続堀切を過ぎると採石場なのですが、妙に整った平坦場が出現。松の苗木が植えられてました。採石場の環境整備でしょう。その先は、戸宇川が作ったものすごい高低差の崖。背後の守りは固い。
帰路で、ぴーかるさんが見落としたと言う、杉の平の畝状竪堀を探しにいきました。上方の郭から斜面を下りつつ、ⅩⅢ郭と杉の平(ⅩⅣ郭)の間の畝状竪堀を発見しました。ⅩⅢ郭とⅩⅣ郭間は、30mほどの高低差があり斜面もけっこう長いです。畝状竪堀は、斜面の中程にあり、ⅩⅢ郭から見下ろしても、ⅩⅣ郭から見上げても見えません。ⅩⅢ郭に行くには、世直神社からの登城道の写真⑨の道標の矢印がない側の道を行って下さい。

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ぴーかる

五品嶽城 (2024/01/04 訪問)

【五品嶽城】
<駐車場他>庄原市東城まちなか駐車場あり。開いてる時間が9:00~17:00 かもしれません。
<交通手段>車

<見所>曲輪・土塁・石垣跡・主郭櫓台石垣・堀切
<感想>現地説明板によると五品嶽城は五本竹城・世直城ともいわれた。築城年代は明らかではないが、宮氏が築城し、宮氏が大富山城を築いて西に移るまでの本拠としました。宮氏が毛利氏の命で出雲に転出したのち、1591年に石見国から佐波広忠が赴任します。毛利氏が関ヶ原合戦後萩に移封伴い佐波氏も移ります。毛利氏に変わって太守となった福島正則は三家老のひとり長尾一勝を城主に任命します。福島正則が改易後に五品嶽城も廃城となったようです。
 登城口は駐車場の北側にある歩道橋から世直神社背後から登ります。遊歩道があるので主郭まで簡単に登れます。城跡は連郭式の山城で主郭主要部に多く石垣を使っています。曲輪に植えられている木の種類を曲輪名につけているのが多く、麓付近の杉の段という曲輪の下方に畝状竪堀群がありますが杉の段が藪化して奥まで入り込めませんでした。曲輪によって平坦な曲輪もあれば谷側を土塁を敷いている曲輪もあり見応えがあります。
 主郭跡は内枡形虎口跡があり進入口に凹地が残っていて少し石列も残っています。最北側奥に長方形の櫓台が残されており、特に背面に良く石垣が残っています。主郭の石垣も櫓台石垣の下段と北西側斜面に良く残されています。主郭の背後に大堀切があり、その先に小さな2重堀切があります。さらにその先は採石場に出てしまいます。主郭の東側斜面にも畝状竪堀群があるようですが、ここも見落としてしまいました。主郭の下の2郭・4郭に多く転落石が集められていて、かなりの石垣造りの城だったのではないかと思います。かなり見応えある城跡でした。

<満足度>◆◆◆

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国重

伝天守台の石垣と各曲輪の土塁がよかったです。 (2019/12/22 訪問)

 この城跡は、戦国時代から江戸時代にかけての山城で、五本竹城・世直城とも言われた。築城年代は明らかではないが宮氏が築城し、のち大富山城を築いて西に移るまで、宮氏の本城とされた。【現地案内板より抜粋】
 広い駐車場があり、そこから歩道橋に向けて歩くと登山口があります。駐車場の上を通る道は荒れているので、歩道橋を目指して進むのが正解です。

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織田晃司

天守台背面石垣 (2018/04/07 訪問)

郭、石垣、土塁が残って見所のある城です。
下草の処理がしてあるとありがたいかな…

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 宮景友
築城年 大永・享禄年間(1521〜1532)
主な城主 宮氏、佐波氏、長尾氏(福島氏家臣)
遺構 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、竪堀、庭園跡、建物礎石、井戸
指定文化財 県史跡(五品嶽城跡)
住所 広島県庄原市東城町川西
問い合わせ先 庄原市生涯学習課文化財係
問い合わせ先電話番号 0824-73-1189