笠間城は特に案内板などは有りませんが、遺構が良好に残っています。奈良の山城はこういった比較的放置された城が多いですね。主郭の北側は堀と土塁で守られています。主郭も北側に土塁が良く残っていて、東西両端に櫓台らしきものが残っています。
特に東側が見ごたえがあり、土橋が上まで続いています。特に北側の守りが厚い城のようです。
+ 続きを読む
✕
人が「いいね」しています。
2024/11/11 19:08
2024/11/07 20:19
天正伊賀の乱で滅亡した下笠間氏の居城。 (2024/10/06 訪問)
笠間城は下笠間氏の居城とされています。下笠間氏は上笠間氏、多田氏ら東山内の豪族らと染田天神でたびたび連歌の会を催していたようです。そんな風雅な生活を送っていた下笠間氏も天正9年(1581)の伊賀の乱で滅亡したとされています。
城址は麓の街から登って行ってゲートをあけて入っていきます。ちょうど堀切のあたりに突き当たるので西側へ主郭をめざして進んでいきます。いくつか堀切があり、二重堀切もあります。主郭には直接取り付きましたが、なかなか面白い遺構が残っています。
+ 続きを読む
♥ いいね
15人が「いいね」しています。
2022/04/11 19:51
笠間城 (2022/03/20 訪問)
【笠間城】
<駐車場他>駐車場はなし。駐車するならば下笠間永仁阿弥陀摩崖仏の傍県道782号<34.628777, 136.032460>の退避所または<34.623788, 136.025620>のポイントが消防団か公民館になっているので許可を得て駐車する。
<交通手段>車
<見所>堀切・土塁
<感想>笠間城は城びとの城郭情報によると戦国時代に下笠間氏によって築城されたとあります。城跡へのルートは<34.626877, 136.027403>のポイント、倒壊した赤い屋根の家屋の先に山の防獣柵の扉がありますので中に入れます。切通をつづら折れに登ると尾根上に出ますので北西方向、山に向かって登ります。堀切を1か2条渡ると主郭の手前に2重堀切があります。2重堀切から右手の北方向に曲がると主郭の高土塁のある堀底道があります。高土塁と堀は北から東にかけてカーブしながらあります。見応えあります。主郭へは北側が切岸がやや低くなって人が出入りした跡があるのでそこから入り込めます。主郭は南北に長い長方形で南にスロープ状の土橋の付いた1段高くなった曲輪を備えています。こちらが主郭または櫓台の曲輪と思われます。
下笠間永仁阿弥陀摩崖仏を見てから登城しました。登城ルートと城跡内の状態の情報が少なく心配しましたが山は間伐されてそこそこ整備されていました。入山するのにちょうど庭に出ていた民家の方にお声がけさせていただきましたがあまり城跡という認識はないようです。
<満足度>◆◆◇
+ 続きを読む
♥ いいね
19人が「いいね」しています。
2022/03/17 13:10
大和高原を行く (2022/03/13 訪問)
先に投稿した畑城から更に大和高原を南西に進みます。古城盛衰記さんが、「県道782号線より北に行った、防火水槽横西側にコンクリート舗装の幅1.5mほどの道があり、行き止まりの廃屋右手に登り口」と教えてくれてますが、たまたま出会った麓の村の住人が「なにもないし、誰も行かないので道もない」と言われたことから、城の南西の谷を登る細い舗装道路を行って、城の背後から最短距離で直登することにしました。山の尾根筋は檜の植林で、下草はなく、難なく城域に着きました。
まず、城の背後を守る、高くて急峻な土塁と横堀のセットに圧倒されました。登るすべがありません。土塁を回り込んで本郭に進入。本郭を最高点にして、村落側の南西に郭群が配置されています。南東の尾根に二重の堀切があり、帰りは、そこを越えて山を下ってみました。古城盛衰記さんが教える、廃屋横に降りられましたが、最後のあたりは道が失われつつありました。
大和高原の小盆地と耕地、村落の一例の写真を添付しました。
+ 続きを読む
♥ いいね
15人が「いいね」しています。
分類・構造 | 平山城 |
---|---|
築城主 | 下笠間氏 |
築城年 | 戦国時代 |
主な城主 | 下笠間氏 |
遺構 | 曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀) |
住所 | 奈良県宇陀市室生下笠間字城山 |