さわらぎじょう

沢良宜城

大阪府茨木市


旧国名 : 摂津

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①沢良宜城跡碑と説明板
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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)14日目:沢良宜城 (2024/10/05 訪問)

真砂一丁目バス停から徒歩15分弱で、美沢公園内石碑/説明板前(34.798221、135.569141)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、城主は藤井三位で1399年(応永6年)周防山口の大内義弘が堺へ進出したきたときに、室町幕府の「御馬廻衆」として二千騎を率いて出陣したそうです。

沢良宜城は佐和良義神社の西側一帯に築かれていたと考えられていますが遺構はなく、参道入口の西にある美沢公園に石碑と案内板があるのみです。
佐和良義神社の参道は南北に長く残っており、かつての沢良宜城の馬場であったとも云われています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=黒丸城を目指す為、沢良宜橋バス停から近鉄バスで鳥飼本町一丁目バス停に向かいました。

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イオ

まっすぐのびる馬場跡 (2023/12/16 訪問)

詳細は不明ながら、室町前期に御馬廻衆として幕府に仕えた藤井三位の城で、室町中期には廃城となったようです。

茨木市立文化財資料館から徒歩で登城。茨木川と坊領川の間の美沢公園周辺が城跡ですが、住宅地となっていて遺構は見当たらず、公園内に石碑と説明板があるくらいです。公園の外側に沢良宜城説明板の案内表示が掲示されているのがありがたいですね。

美沢公園の東には佐和良義神社の鳥居があり、その東側に一段高く南北にまっすぐのびる参道は沢良宜城の馬場跡と云われています。かつては馬場の東側には茨木川が流れていたことから考えるに、馬場は川沿いの土塁を兼ねていたようにも思えます。馬場の北端には佐和良義神社の社殿が建っています。沢良宜城の北東隅にあたるため、鬼門除けの意味もあったのかもしれません。そして、美沢公園まで戻って西辺を画する坊領川を渡り、次の目的地の三宅城に向かいました。

石碑と説明板のほかは馬場くらいしか見るところはありませんが、まっすぐのびた馬場跡は見るからに馬場! という感じでした。
 

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しんちゃん

団地土台が石垣っぽいのは城跡だから? (2023/07/18 訪問)

沢良宜城は藤井氏の居城で、応仁の乱(1467~77)かその以前
(15世紀初期)に廃城となったとのことですが、その後の藤井氏の
詳細ははわかりません。かつての馬場跡に佐和良義神社の参道が
まるで土塁のように南北に長く連なっていて、周囲より高地になっています。
南東部の美沢公園の案内板に藤井氏に関する記述や明治初期ごろに書かれたと
される東摂城址図誌の縄張り図が記載されており、それにも佐和良義神社の
参道が描かれています。南西側の丘陵にも縄張りがあったそうで
かつての縄張り一帯に住宅団地や住宅がひしめいていますが
北側の住宅団地の敷地土台が石垣を積み上げたようになっているのが
ユニークな気がしました。

案内板周辺
大阪府茨木市美沢町13
34°47'53.6"N 135°34'08.7"E
34.798230, 135.569081

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藤井三位 (2023/07/22 訪問)

 美山公園に石碑と説明板があります。
黒丸城から向かいましたが、鳥飼本町一丁目バス停からバスに乗り沢良宜橋バス停で降りました。バス停から徒歩約3分で美山公園に行くことができます。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 不明
築城年 不明
主な城主 藤井氏
遺構 消滅
再建造物 石碑、説明板
住所 大阪府茨木市美沢町13(地図は石碑の場所を示す)