ちがちしじょう

千賀地氏城

三重県伊賀市

別名 : 千賀地城
旧国名 : 伊賀

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主郭上から
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ぴーかる

服部半蔵生誕地 (2024/11/16 訪問)

【千賀地氏城】
<駐車場他>県道687号線道路脇<34.709576,136.103979>(カズサンさん案内による)
<交通手段>車

<見所>土塁・櫓台・堀切
<感想>日帰り伊賀攻めの旅ラスト4城目。千賀地氏城の築城は室町時代の後期に足利義晴に仕えていた服部保長がこの地に移り住み、地名の千賀氏を名乗り築城したとされます。服部保長の子、服部正成(半蔵)はこの地を出て徳川家康に仕え旗本8000石を与えられています。同地に藤堂藩の家老藤堂采女が出ています。
 県道から案内板がありますので城跡へはすぐにたどり着けます。単郭の城跡で北側背後に櫓台を兼ねた高土塁があります。土塁背後に堀切があります。堀切の北側は自然の尾根が続いているので南側の小さな腰曲輪を合わせても非常に小さな極小と言ってもいい程こじんまりとした城跡です。この日少なめ、248㎞無事走破。

<満足度>◆◆◇

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登城口脇のおたくのおじさんによると (2024/02/11 訪問)

道端の自然石の道標に従って短い坂道を登ると、民家の私道・作業場とも見える場所に。大根を洗って軽トラに積んでいるおじさんがおられて、目があったので、挨拶して、バイクを停めさせてもらいました。車なら駐車は無理かも。その少し前に、googleマップに導かれて、一本南の坂道を登っていく私を見たと。「googleマップに頼るとあっちに行くみたいやね」とも。下城後、感想を尋ねられました。北側、西側の堀も廻ったと言うと、喜んでもらいました。有志が年に一度、城域を草刈りしておられるそうです。
「昨年の大河ドラマ どうする家康 の影響で
千賀地氏城への訪問者が増えた。」「(千賀地氏城所縁の)服部半蔵が握り飯一つで下知される、あまりな描写は、地元民としてとても残念」とも。

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しんちゃん

小ぶりだが造りはしっかりしている服部半蔵のオヤジの城。 (2023/07/15 訪問)

千賀地氏城は服部氏族の一つ千賀地氏の城と伝わります。
石碑を見ると、あの服部半蔵ともかかわりがあるようですね。
基本的に主郭しかありませんが、小規模な割には造りがしっかりしています。
主郭の周囲を土塁で囲み北側の土塁は厚く物見も兼ていたものと思われます。
その北側は堀切で遮断、西の尾根上にも堀切が続いて西側から
攻めてくる敵を遮断しています。
服部半蔵正成の父、服部保長は当地に移り住んだ際に千賀地氏を名乗ったと
wikiには出ています。

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カズサン

伊賀未踏の城廻りⅣ 服部半蔵誕生の碑も在るが? (2021/04/11 訪問)

 名張の桜町中将城を終えて北北西に約7km程、地道を通り途中名張街道沿いのコンビニで昼食トイレ休憩、道の良い名張街道から地道へ県道686号線から687号線に入り工場横の空き地をナビの目的地にしましたが工場の駐車場兼資材置き場、暫く687号線を走って地元方に路駐出来る所、登城路を聞き込みました。

 路駐場所:県道686号線687号線分岐点から約400m先の県道687号線山側の三角コーナー(N34°42'35" E136°06'14")2台可

 概要案内:路駐場所から約300m程戻り県道沿い山手に千賀地城跡入口の自然石碑が在る、上ると角々に案内標柱が有り、崖補強した壁に登り階段が付いている、登り切ると登城口、登城坂から虎口へ、主郭は大きくは無い、北に高い土塁、西、東に低い土塁、案内板と服部半蔵・藤堂采女(伊賀上野城代家老)の名を刻んだ石碑が大きな自然石で建ってる。後供養塔の様なものが北側土塁側に小さく建ってるが内容が分からない。
 北土塁裏側に回って土塁と堀を確認するも灌木藪も有り遠目で見るだけ。
 先程地元の方の話では服部半蔵誕生の話は懐疑的でしたが?良く分かりません、主郭に在った伊賀市の案内板には藤堂采女の誕生は記されてましたが半蔵の誕生は記されてません、藤堂采女が千賀地氏の出自と有り千賀地氏は服部氏の流れを汲むと案内板では読み取れます。

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城郭情報

分類・構造 丘城
天守構造 不明
築城主 千賀地保長
築城年 室町時代後期
主な城主 千賀地氏
廃城年 不明
遺構 曲輪、土塁、堀切、櫓台
再建造物 石碑、説明板
住所 三重県伊賀市予野