ふくちじょう

福地城

三重県伊賀市

別名 : 福地氏城
旧国名 : 伊賀

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芭蕉生誕の地碑
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しんしんちゃん

松尾芭蕉の一族の城。土塁が高く分厚い。 (2023/06/25 訪問)

福地城は伊賀の国 柘植の有力な国人、福地氏の居館です。
松尾芭蕉はこの福地氏の出身と言われ本郭の中に松尾芭蕉誕生の地の
石碑があります。
本格の入口には石積が築かれいつの時代のものかはわかりませんが
少なくとも本郭の土塁と一体化している周辺は当時の物ではないでしょうか。
本郭の周辺は高くて分厚い土塁で覆われていて、百地氏や服部氏などの
上忍に次ぐくらいの地位にいたのではないでしょうか。
実際の福地氏の収入は千石くらいだったと言われていますが
本丸に石垣を使っていることや、土塁の高さ、分厚さは上忍の館に
引けを取りません。第二次天正伊賀の乱の際に織田に通じていることからも
上昇思考の高かった人物だったのではないでしょうか。
本郭だけでも十分見ごたえがありますが、北の郭にも足を延ばしてみると
良いと思います。堀切を渡って北の郭に入ると
周囲には土塁がしっかり残っています。
どのような人物が住んでいたのか気になるところです。

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ぴーかる

福地城 (2022/09/25 訪問)

【福地城】
<駐車場他>芭蕉公園駐車場3台程度
<交通手段>車

<見所>虎口石垣・曲輪土塁・堀
<感想>福地城の築城年は定かではないが、室町時代には柘植(つげ)地方の有力国人「柘植三方(日置氏・北村氏・福地氏)」のひとつ福地氏の居城とされています。福地氏は室町幕府より東にいる関氏討伐を命じられたり信長進攻時の伊賀天正の乱の際には信長に味方したために本能寺の変後は伊賀衆の残党に攻められ国外へ逃亡したそうです。
 添付写真現地縄張り図①の主郭虎口の石垣は見事です。甲賀蒲生氏拠点日野城跡にも同じような石組が見られますがこちらの方が断然すごいです。主郭部分は甲賀・伊賀地方特有の方形高土塁で囲み北西部分を深い空堀で囲んでいます。主郭奥にある土塁上に上がる箇所は切り込んで石垣で固めています。さらに土塁上に礎石が残されていますので建築物があったと思われます。②④のカフェ店舗の石垣は遺構かわからないのですが当時のものの流用なら凄い石垣です。②の副郭部分にも少し低くなっていますが土塁囲みになっています。⑬の曲輪は田んぼになっていますが高土塁は圧巻で見応えあります。
 甲賀伊賀地方特有の城郭造りに珍しく大石垣で固めた特有の城跡でした。

<満足度>◆◆◆

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カズサン

信長伊賀攻め道案内福地氏の城 (2017/03/18 訪問)

 一昨年3月三重県未踏の城廻り、久居陣屋を終えて福地城初登城。(情報ガイドは何時もの城郭放浪記さん余湖図コレクションさん)

 高速道を使い西名阪道伊賀ICを降り伊賀SA沿いを回って道が狭く少し迷いましたが何とか芭蕉公園駐車場へ到着。

 1郭の虎口石垣、高土塁方形曲輪が良く残ってます、南側高土塁下は西名阪道が走って一部城域が削られてます、北側土塁には枡形石垣が残り土塁上に在った多門櫓への出入口か?、1郭西には横堀、さらに館跡、こじんまりとした城郭が残ってました。

 福地氏は伊賀平定の後に所領安堵されたが、裏切り者としていたたまれず、他国へ逃亡したと言われてる。
 がよくこの城跡を残してくれました芭蕉は福地氏出身とかでここを芭蕉公園として大切に保存管理されてます。

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芭蕉公園 (2019/09/26 訪問)

石垣、土塁、空堀もそれなりに残っていて楽しむことができますが、空堀の中は草が多くよく見えません。

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城郭情報

分類・構造 丘城
築城主 福地氏
築城年 不明
主な改修者 福地宗隆(福地伊予)
主な城主 福地氏、池尻氏
廃城年 天正10年(1582)
遺構 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、井戸、礎石
指定文化財 県史跡(福地城跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 三重県伊賀市柘植町7426-2他
問い合わせ先 三重県教育委員会事務局社会教育・文化財保護室
問い合わせ先電話番号 059-224-2999