伊賀っぽい分厚い土塁のお城には似つかわしくない石垣は門礎石も伴うものでどうやらお城があった頃のものらしい。福地氏は安土に赴き信長との関係を深めていたそうなので何となく納得。福地氏のご子孫が松尾芭蕉らしい。へー。
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2025/12/30 22:18
2024/10/21 05:26
公共交通のみで(東海&関西遠征)5日目:福地城 (2024/09/26 訪問)
柘植駅より徒歩30分くらいで、芭蕉公園入口(34.835459、136.247321)に着きました。
築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に福地伊予守によって築かれたと云われています。 福地氏は平宗清を祖とするそうです。
1581年(天正9年)第二次伊賀の乱で福地伊予守は、織田信長に与して伊賀侵攻の案内者となり、福地氏城には信長の家臣不破彦三を置きました。
伊賀平定の後に所領を安堵されましたが、裏切り者としていたたまれず、他国へ逃亡したそうです。
芭蕉公園として整備されています。松尾芭蕉はこの福地氏の一族であるため、「奥の細道」は幕府が芭蕉を隠密として旅させたものだともいわれています。
主郭は虎口に石垣を用い、高土塁で周囲を囲んでいます。
電車の時間がなく、攻城時間は15分くらいで引き上げました。次の攻城先=竹中城を目指す為、柘植駅から電車で甲南駅に向かいました。
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2023/07/08 10:28
松尾芭蕉の一族の城。土塁が高く分厚い。 (2023/06/25 訪問)
福地城は伊賀の国 柘植の有力な国人、福地氏の居館です。
松尾芭蕉はこの福地氏の出身と言われ本郭の中に松尾芭蕉誕生の地の
石碑があります。
本格の入口には石積が築かれいつの時代のものかはわかりませんが
少なくとも本郭の土塁と一体化している周辺は当時の物ではないでしょうか。
本郭の周辺は高くて分厚い土塁で覆われていて、百地氏や服部氏などの
上忍に次ぐくらいの地位にいたのではないでしょうか。
実際の福地氏の収入は千石くらいだったと言われていますが
本丸に石垣を使っていることや、土塁の高さ、分厚さは上忍の館に
引けを取りません。第二次天正伊賀の乱の際に織田に通じていることからも
上昇思考の高かった人物だったのではないでしょうか。
本郭だけでも十分見ごたえがありますが、北の郭にも足を延ばしてみると
良いと思います。堀切を渡って北の郭に入ると
周囲には土塁がしっかり残っています。
どのような人物が住んでいたのか気になるところです。
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2022/11/06 11:23
福地城 (2022/09/25 訪問)
【福地城】
<駐車場他>芭蕉公園駐車場3台程度
<交通手段>車
<見所>虎口石垣・曲輪土塁・堀
<感想>福地城の築城年は定かではないが、室町時代には柘植(つげ)地方の有力国人「柘植三方(日置氏・北村氏・福地氏)」のひとつ福地氏の居城とされています。福地氏は室町幕府より東にいる関氏討伐を命じられたり信長進攻時の伊賀天正の乱の際には信長に味方したために本能寺の変後は伊賀衆の残党に攻められ国外へ逃亡したそうです。
添付写真現地縄張り図①の主郭虎口の石垣は見事です。甲賀蒲生氏拠点日野城跡にも同じような石組が見られますがこちらの方が断然すごいです。主郭部分は甲賀・伊賀地方特有の方形高土塁で囲み北西部分を深い空堀で囲んでいます。主郭奥にある土塁上に上がる箇所は切り込んで石垣で固めています。さらに土塁上に礎石が残されていますので建築物があったと思われます。②④のカフェ店舗の石垣は遺構かわからないのですが当時のものの流用なら凄い石垣です。②の副郭部分にも少し低くなっていますが土塁囲みになっています。⑬の曲輪は田んぼになっていますが高土塁は圧巻で見応えあります。
甲賀伊賀地方特有の城郭造りに珍しく大石垣で固めた特有の城跡でした。
<満足度>◆◆◆
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| 分類・構造 | 丘城 |
|---|---|
| 築城主 | 福地氏 |
| 築城年 | 不明 |
| 主な改修者 | 福地宗隆(福地伊予) |
| 主な城主 | 福地氏、池尻氏 |
| 廃城年 | 天正10年(1582) |
| 遺構 | 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、井戸、礎石 |
| 指定文化財 | 県史跡(福地城跡) |
| 再建造物 | 石碑、説明板 |
| 住所 | 三重県伊賀市柘植町7426-2他 |
| 問い合わせ先 | 三重県教育委員会事務局社会教育・文化財保護室 |
| 問い合わせ先電話番号 | 059-224-2999 |