あいばじょう

相羽城

岐阜県揖斐郡


旧国名 : 美濃

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社の段に建つ城名石碑
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カズサン

西美濃未踏の城廻Ⅲ低高地の相羽城 (2023/10/21 訪問)

 藤橋城・杉原砦と徳山ダムの探訪見学を終えて揖斐川渓谷をドライブ見学しながら今回の3城目の相羽城に初登城。

 駐車場:相羽公民館南のジャリ駐車場(35°27'23"N 136°38'12"E)を利用
 参考資料:城郭放浪記さん、グーグルマップ、城びとの投稿者各位。

 方形の低高地に八幡神社が鎮座しここが主郭の跡地か?東側の廃線跡プラットホーム間、堀だったかも?通り南から八幡神社鳥居と標柱を確認、南側隙間から低高地の土塁と堀跡かな?と確認し、更に南、西と民家を廻り込み北西の隙間から低高地の土塁法面、堀跡かな?を確認、神社に入り込めないので戻って南側、東側へ、神社が鎮座してる段には立派な城名石碑を確認。

 歴史面は皆さんが書き込んでいるように美濃なので土岐氏、斎藤氏絡みの歴史が残って居る。
 

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しんちゃん

長屋半月ってちょっとカッコいい。生存説があるのは愛されたから? (2021/12/26 訪問)

相羽城は八幡神社境内が跡地です。社中心が幾分周囲より高いです。
いかにも城跡といった感じの土盛りがされています。
築城者は饗庭と称した、土岐次郎光時ではないかとされ
承久の乱の宇治川の合戦で戦死、
築城はそれ以前と考えられています。
時がたって一時、城は廃されましたが天文の初期
長屋景興が不破郡垂井より移って、城を修復し、美濃守護
土岐頼芸に属して二万石を領したと伝わります。
長屋景興は常に半月の大指物を用いて軍功をあげ、長屋半月と称された
豪傑でした。
景興は斎藤氏との戦いで討ち死にしたとも、生き延びたとも
言い伝えがあります。
かつての城の堀の役目を果たした東北方の池からは柱や梁などの
木材が出土しています。

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ぴーかる

相羽城 (2023/07/15 訪問)

【相羽城】
<駐車場他>相羽公民館に駐車しました。
<交通手段>車

<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第1弾1城目。相羽城の築城は鎌倉時代の前期に土岐光行の子光俊が饗庭姓を名乗り築城しましたが承久の乱で討死します。その後一時廃城となりますが戦国時代には土岐頼芸の家臣長屋景興が修築します。1545年に斎藤道三に攻められて落城し、その後鷹司氏が城主となりますが1549年に織田信秀に攻められて落城し廃城となったようです。
 現地は八幡神社になっていて、本殿の本丸跡は少し高台(土塁かも)になっています。近隣の川の流れが現在と変わらなければ、東に根尾川、西に三水川が流れ東西の川を堀代わりにしていたと思われます。戦国時代、織田信秀は稲葉山城の更に北西方の濃尾平野の最北の城まで攻略していたのが凄いです。

<満足度>◆◇◇

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)9日目:相羽城 (2023/04/26 訪問)

軽海西城からの転戦です。神社北側公民館入口(35.456320、136.636801)から進入して駐車し、標柱(35.455549、136.636556)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、建暦・建保年間(1211~19年)に土岐二郎光俊によって築かれたと云われています。
光俊は土岐美濃守光衡の嫡子浅野判官光行の二男で、饗庭二郎と称し鎌倉北条方に属して承久の乱で討死したそうです。
饗庭氏は光俊の後、二郎太郎国綱、国頼、国信と続いたようですが、後に廃城となったようです。
天文年間(1532年〜55年)初期には長屋景興が垂井より移り、城を修築して美濃国守護土岐頼芸に仕えました。
1546年(天文15年)斎藤道三が相羽城を攻めましたが、この時は落城しなかったようです。
しかし、翌年土岐頼芸の籠もる大桑城が落城し頼芸は国外に逃れると、道三は再び相羽城に攻め寄せ城主景興と嫡子与五右衛門景直は奮戦むなしく討死したそうです。一説に景興は城を逃れて木曾屋に隠れて没したともいわれています。

現在の八幡神社境内は周囲より幾分高く、ここが本丸跡と伝えられており、標柱と石碑が建っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=揖斐北方城に向かいます。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 饗庭(土岐)光俊
築城年 鎌倉時代
主な改修者 鷹司氏
主な城主 饗庭氏、長屋氏
廃城年 不明
遺構 曲輪
指定文化財 町史跡
再建造物 石碑
住所 岐阜県揖斐郡大野町相羽
問い合わせ先 大野町役場総務広報課
問い合わせ先電話番号 0585-34-1111