安田城からの転戦です。城址碑説明板前(36.717344、137.140835)に路駐しました。
築城年代は定かではないようですが、戦国時代に寺崎氏によって築かれたと云われています。
寺崎氏は畠山氏の家臣でしたが、1550年(天文19年)上杉謙信によって落とされ、当主の寺崎行重が敗死しました。跡を継いだ子・盛永は謙信や越中国富山城主神保長職らとの間で巧みに立ち回ります。
1552年(天文21年)謙信に属していた寺崎盛永が越中国井田城主飯田(斎藤)利忠と戦います。(天神林の戦い)
戦いは利忠の弟である利常、利憲が討たれ利忠は同族である斎藤信利が拠る越中国城生城へと逃れるなど、盛永の勝利に終わり、盛永は余勢を駆って城生城を攻めたが、こちらは上手く行かず撤退しました。
1574年(天正2年)能登国を治めていた畠山氏の当主・義慶が死去すると、これに乗じて越中の一向一揆勢は能登国へ攻め込み畠山方と二宮で戦うが敗れました。
この頃、盛永は一向一揆に与していたとみられ、この戦いの総大将を務めていたとみられます。
1576年(天正4年)謙信が能登国の畠山氏を攻め、翌年その拠点七尾城を落としました。この戦いに盛永も参戦していたと思われ、この頃には上杉家に属していたようです。
1578年(天正6年)謙信没後に織田氏が越中に侵攻すると織田氏に降りました。
しかし、上杉氏が再び越中に侵攻すると再度降り、1581年(天正9年)織田氏によって攻められ落城、城主寺崎父子は近江に送られ自刃させられました。
遺構は残っておらず、GPS座標付近に説明板と城址碑があるだけです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=日宮城に向かいます。
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