牧之島城から転戦。説明板付近(36.545942、137.838386)に路駐し、本丸の仁科神社、仁科神社境内の道を進み、安倍神社(36.547128、137.838356)に向かいました。
平安時代後期には仁科氏が安曇郡一帯の国人領主となり、大町周辺の荘園「仁科荘」や「仁科御厨」を支配していたが、市内の舘之内に舘を築くと、この城は後詰めの城としての役割を果たしました。
1221年(承久3年)承久の乱に際し、仁科盛遠は朝廷側に付き鎌倉幕府軍と戦い敗れました。
戦国時代、仁科盛政が甲斐国の武田信玄に切腹させられ仁科氏の嫡流は途絶え、信玄は五男である晴清を仁科五郎盛信と名乗らせ城主に送り込みます。
信玄は越後国の上杉謙信に対する軍事上の重要拠点として盛信を配置し、城郭を改修させました。
1582年(天正10年)織田信長に攻められた武田勝頼は天目山に追い詰められ自刃します。
武田氏滅亡後に、この地を治めた小笠原貞慶も上杉景勝に対する軍事上の拠点として派兵したと記録されているようですが、廃城の時期は不明のようです。
仁科神社境内が本丸で、土塁が残っています。仁科神社には仁科氏や明治時代以降の戦没者が祀られています。境内の一画には仁科盛遠の顕彰碑や古い塚などが残されています。
本丸の北に「阿部神社」があり、仁科氏の祖先とされ大和時代からの古代氏族である阿倍氏が祀られています。
平安時代後期の前九年の役を戦った安倍貞任、宗任親子が祀られているとも伝えられています。
北の阿部神社に行く道の西に二の丸があり、車道となっている空堀の南に、三の丸があり畑になっています。
東には木崎湖があります。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=千見城に向かいました。
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