2019/01/31
都道府県のお城シリーズ 【神奈川県のお城】小田原城を含めた3つのお城
「城びと」サイトにはたくさんのお城の情報をお寄せいただいています。お城初心者の方から「どこのお城にまず行けばいいの?」という声をいただく機会がふえてきました。今回は、神奈川県編。神奈川県のお城といえば、北条氏康が治めた小田原城(小田原市)が最も有名です。日本100名城にも選ばれている小田原城には、小さな遊園地も併設されているので、地元の方なら子どもの頃に慣れ親しんだ場所かもしれません。また、小田原城の他に小机城・石垣山城といった続日本100名城にも選ばれているお城があります。3つのお城はどれも豊臣秀吉の天下統一の仕上げであった小田原征伐に関わってきます。小田原城、小机城、石垣山城の3つのお城を紹介します。
神奈川県にあるお城は?
平成の大改修が行われ、少しずつ当時の姿が復元されてきている小田原城は、明治の初期に廃城となり大部分が解体され、石垣も関東大震災で崩壊してしまいました。しかし天守をはじめ様々な箇所が復元されており、人気のお城です。
神奈川県には、小田原城以外にもお城ファンにはおなじみのお城があります。小机城は北条氏を城主、笠原氏が城代として治めてきました。秀吉の小田原攻めの際には、小机城にいたものは小田原城に移って籠城したので、秀吉は、小机城は攻めていません。
そして小田原攻めの中心となるのが、石垣山城です。この城は豊臣秀吉が小田原攻めの際に本陣として造ったもの。一夜にして造られたように見せたことから石垣山一夜城とも呼ばれました。現在は、小机城・石垣山城ともに公園として整備されています。
■小田原城(日本100名城)
年月を経てパワーアップしてきた復旧の城・小田原城(日本100名城)
小田原城は、15世紀中ごろに造られたとされています。小田原城の城主として有名なのは北条氏です。15世紀末から約100年に渡って治めていましたが、豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏は滅亡。この戦いで戦国時代も終焉しました。多くの建物はその後の解体や関東大震災によりほぼ全壊の状態でしたが、江戸時代の景観を取り戻そうと昭和から復旧工事が行われています。
小田原城で一番最初に復元されたのは天守閣。昭和35年に復元されました。現在では、天守閣の高さ以上の建物の建築を制限し、昔ながらの景観を守っています。
また、平成9年に復元された銅門は重厚な扉が当時の鉄壁の守りを象徴しています。平成28年5月には、さらにリニューアルした天守閣が見学できるようになりました。天守閣内にはミュージアムショップもあります。また平成31年3月末までは土日祝日限定で、普段は閉ざされている銅門が開き、中に入ることもできます。
小田原のもう1つの名物が、かまぼこです。沿岸漁業が盛んだった小田原で、魚の保存方法の1つとしてかまぼこ作りが発展していきました。当時は新鮮な魚を箱根に届ける方法がなく、保存性のよいものを届けるという意味でも小田原はかまぼこの一大産地になりました。参勤交代で箱根路を通る大名にも賞味されたため、たくさんの江戸のかまぼこ職人が小田原に移り住んだという話もあります。
このほか、大きな神社ではありませんが、北条氏ゆかりの神社として有名なのが龍宮神社です。龍という名のとおり祀られているのは海の神様である竜神様。屋代の扉には、北条氏に認められていたという証でもある三ツ鱗家紋に、漁師たちの功績を称える波の模様が刻まれています。当時の漁師たちはここで大漁や安全を祈願して海に出ていったのです。
所在地:神奈川県小田原市城内6番1号
アクセス:小田原駅から徒歩10分 小田原厚木道路「荻窪IC」から約10分 西湘バイパス「小田原IC」から約5分 東名高速道路「大井松田IC」から約40分
楽しみ方: 城下町散策、銅門見学
■石垣山城(日本100名城)
豊臣秀吉の小田原攻めの本陣となったお城・石垣山城(続日本100名城)
石垣山城は豊臣秀吉が小田原城を攻めるために造ったお城です。森の中に城を建て、完成したところで周りの木々を切り倒し、まるで一夜で城ができたように見えたことから、石垣山一夜城とも呼ばれています。
実際には、一夜ではなく建築期間は80日間だとされています。どちらにしても急ごしらえではありますが、関東初の総石垣のお城です。石垣山城ができた数日後、北条氏は降伏しています。
石垣山城の本丸があった場合は、現在展望台になっているので、石垣山城から小田原城をどのように豊臣秀吉が見ていたのか、思いを馳せることもできます。逆に、小田原城の天守閣からも石垣山城の展望台を見ることができます。一夜にして城ができたように見えた小田原城の家臣たちのプレッシャーがいかほどのものだったか、両方の視点から見てみると面白いかもしれません。
また、石垣山城自体には関わりはありませんが、現在史跡公園として整備されている石垣山城の駐車場となっている部分には当時、江戸城の修復のために使われたとする石切り場の石材が残っています。石垣山城に使われた石材でないと分かるのは、石を割るための楔を打ち込むポイントとなる矢穴があるから。これが石垣山城の石材とは大きく異なる点です。石垣山城築城の翌年に建てられた肥前名護屋城では、矢穴が見られるため、小田原攻めを転機として石材の切り出し方法が変わったのでは、とも言われています。
石垣山城は、山にあった沢を大きく石垣で囲ったので、部分的にダムのようになっていたと考えられています。石垣の苔のむし具合から、水の豊富な場所であることがうかがえます。
所在地:神奈川県小田原市早川1383-12
アクセス:JR早川駅から石垣山農道を経て徒歩約50分 箱根登山鉄道入生田駅から徒歩約60分
楽しみ方: パワースポット散策、石切り場散策
■小机城(続日本100名城)
北条氏綱によって生まれ変わったお城・小机城(続日本の100名城)
小机城の詳しい築城年は分かっていませんが、1400年代の半ばと推測されています。北条氏が、小田原を治める以前では、廃城の期間が長く続いていましたが、後北条氏の勢力下に入ると北条氏綱によって修復され、家臣の笠原氏が城主として配置。小机衆が組織されました。
この小机城ですが実は豊臣秀吉の小田原攻めの際には、無傷で落城しています。というのも、小机城にいた家臣たちはみな小田原城に移って籠城していたためです。小田原攻め後、徳川家康が関東入府した際に、小机城は廃城になりました。現在は、小机城址市民の森という公園として整備されています。
小田原攻めの際にはあっさりと落城してしまった小机城ですが、決して防衛拠点として不向きなお城ではありませんでした、むしろ小机城周辺には空堀が巡らされていることから守りには向いている城であったと考えられています。
空堀とは水が入っていない堀のことで、小机城の空堀は土塁を両側に重ね、堀の深さをより深くしています。ここを通って敵が攻めてきたときには左右に逃げられないので、一網打尽にできるというしくみです。
現在も小机城には、この遺構が当時の面影を残したまましっかりと残っています。また公園内、一の郭の隣には第三京浜道路が走っており、城の中央を貫いているので、道路にも遺構があったのかもしれません。さまざまな遺構を探すべく、じっくり散策してみてはいかがでしょうか?
所在地:神奈川県横浜市港北区小机町
アクセス:JR横浜線・小机駅から徒歩10分
楽しみ方: 公園内散策、空堀遺構散策
執筆/城びと編集部
※歴史的事実や城郭情報などは、各市町村など、自治体や城郭が発信している情報(パンフレット、自治体のWEBサイト等)を参考にしています
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