謎多き戦国武将・明智光秀ゆかりの城

本能寺の変で織田信長を討った人物として有名な明智光秀。光秀が比叡山焼き討ちの戦功で与えられた地に築いた坂本城は、安土城に先駆けて天守が築かれ、瓦が用いられた城だった。「お城EXPO 2018」では、新発見の坂本城築城に関する明智秀満(ひでみつ)の手紙を公開。2020年・2021年放送の大河ドラマ『麒麟がくる』でも話題となった戦国武将・明智光秀について紹介する。(※2019年1月11日初回公開)



国史画帖大和桜、明智光秀
 戦いに敗れ、落ち武者狩りで竹槍に突かれる明智光秀の最期(「国史画帖大和桜」より)

よく分かっていない明智光秀が織田信長に仕えるまでの前半生

2020年・2021年に放送されたNHK大河ドラマは、明智光秀を主人公にした『麒麟がくる』。明智光秀といえば「本能寺の変」とセットで語られることが多く、光秀の知名度は高い。手に入れた地位や権力をすぐに失ってしまうことを指す「三日天下」の故事は、光秀が本能寺の変で織田信長を討ち、天下を奪ったがすぐさま豊臣秀吉に敗北したことから生まれたものだ。他にも、「天王山」「洞ヶ峠を決め込む」など光秀由来の故事は有名なものが多い。

なぜ、光秀は本能寺の変を起こしたのか? ドラマや小説でも取り上げられることが多いこのネタは、怨恨説、野望説、黒幕説など諸説ささやかれているものの決定的な証拠は見つかっていない。また、光秀が信長に仕える前、前半生についても史料はほとんど残っておらず、光秀の生まれ年もはっきりしていない。本能寺の変の時点で55歳とする1528年生まれという説が有力だが、それよりも年上とする1516年生まれ説、年下とする1540年生まれ説などがあり、大河ドラマでは光秀の前半生をどう描くのかが注目された。

そんな光秀の名前が史料に初登場するのは、城にまつわること、というのはご存知だろうか。それは、1566年10月以前に田中城(滋賀県高島市)で籠城していたとする記録だ。13代将軍の足利義輝(あしかがよしてる)に命じられて田中城に派遣されたのではないかと指摘されているものの、詳しい状況は判明していない。ちなみにこの田中城は、信長、秀吉、家康に仕え、大名となった田中吉政(たなかよしまさ)の先祖が築いたとされる城である。

明智城大手門
 明智光秀が生まれた候補地のひとつである可児市の明智城大手門(復元)

岐阜県には「明智(明知)」という名を冠した城が可児市と恵那市に残る。このうち恵那市にある明知城は遠山氏が勢力を張った城のため、美濃(岐阜県)の守護を務めた土岐氏の流れを汲む明智氏の出身とされる光秀は、長山城とも呼ばれる可児市の明智城で誕生したのではないかといわれている。しかし、若い頃の光秀は、召使いを1人連れているだけの貧しい武士だったとする史料もあり、本当に明智城で生まれたのかどうかは、はっきりしていない。

光秀が築いた坂本城には安土城より先に天守があった

信長に仕える前は、京都や越前朝倉氏のもとにいたとされる光秀は、信長へ仕えはじめてからメキメキと頭角をあらわしていく。信長の悪行のひとつとして名高い比叡山焼き討ちで戦功があった光秀は、近江志賀郡5万石が与えられ、居城として琵琶湖に面した地に城を築いた。坂本城(滋賀県大津市)である。

光秀には比叡山焼き討ちに反対したイメージが強いかもしれないが、実際は光秀が積極的に関与していたのではないかとの可能性が指摘されている。焼き討ち前年に比叡山に近い宇佐山城(滋賀県大津市)に入った光秀は、周辺勢力の懐柔を行っており、焼き討ち10日前の書状の中で、比叡山に与する仰木の地を攻め「撫で切り(皆殺し)」にしなければならないと述べているからだ。むしろ信長の方が消極的だったとする説もある。

光秀が建てた坂本城は史料によると、琵琶湖から船で乗り入れができ、驚くべきことに天守が立っていたという。安土城より以前に築かれたこの天守には大天守と小天守があったようなのだが、本能寺の変後に焼失。すぐに再建されるも大津城(滋賀県大津市)新築のため城は取り壊され、坂本城の資材はすべて大津城で再利用された。そのため残念ながら、坂本城はほとんど遺構が残っていない。琵琶湖の水位が減少すると、なんとか石垣が顔を覗かせる幻の城となってしまった。

坂本城址公園、明智光秀、銅像
 坂本城址公園に立つ明智光秀の銅像。遺構はほとんど残っていない

その後、丹波攻略を命じられた光秀は、亀山城(京都府亀岡市)を築く。丹波平定後は領国経営の拠点とされた城で、三重の天守が築かれていたともいう。本能寺の変に際しては、この城から軍勢を出発させている。なお、現在残されている亀山城は徳川幕府によって近世城郭に生まれ変わったもので、光秀時代の遺構は残っていない。

丹波攻略後には、重臣の斉藤利三(さいとうとしみつ)を黒井城(兵庫県丹波市)に、娘婿の明智秀満を福知山城(京都府福知山市)に置き、要所には支城として柏原城(丹波市)や周山城(京都市)などの城を築いて統治を進めていった。同時に、丹波国人が拠点とした城の破壊も行われ、城を寺家と偽り、破城に従わなかった者は処罰された。

黒井城本丸
 黒井城本丸の南にある石垣。光秀は信長の配下でも突出して多くの石垣の城を持つ

周山城、石垣
 周山城に残る苔むした石垣。なぜ、山間の周山城が総石垣の城になったのかは不明

織田政権下では、築城・破城の指示は信長によって行われ、城に瓦の使用が認められたのは国持大名以上であったとされる。丹波国内では福知山城と周山城で瓦が使われていたことが判明しており、坂本城でも使われていた。その坂本城では安土城に先んじて天守が建てられており、信長による光秀の評価がいかに高かったかが見てとれる。

しかし秀光は、何かに魅入られたかのようにフッと信長を討ってしまった。

今後、新史料の発見などにより、光秀が信長を討った真実が明かされることはあるのだろうか。従来の光秀像に惑わされず、光秀と城の関係を見ていければ新たな発見があるかもしれない。


執筆者/かみゆ歴史編集部(丹羽篤志)
ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。かみゆ歴史編集部として著書・制作物多数。

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