【青森県のお城】現存12天守最北!中世の歴史を楽しめるお城たち

青森県には、日本100名城の弘前城(弘前市)、根城(八戸市)、続日本100名城の浪岡城(青森市)などのお城があります。現存12天守の中で最北に位置する弘前城、中世の城として初めて復原された根城、8つの曲輪で構成された浪岡城と、見応えのあるお城を訪ねてみましょう!

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青森県にあるお城は?

「青森県のお城」というと、多くの人が弘前市にある「弘前城」を思い浮かべるのではないでしょうか。日本100名城に選ばれた弘前城は、東日本で唯一であり、日本最北の現存天守を持つお城です。ですが、現在、平成26年(2014)から始まった本丸東面の石垣修復により、天守が本来の場所から移動しています。この作業は建物を解体することなく移動させる「曳家」という伝統工法で行われています。
八戸市にある根城(ねじょう)と、青森市にある浪岡城は、どちらも中世に築城された城郭です。石垣を用いた石づくりの城ではなく、土塁を中心とした土づくりの城で、曲輪や土塁などの縄張に特徴があります。

■弘前城(日本100名城)

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石垣修理のため曳家工法で移動した弘前城天守

弘前城は、津軽藩初代藩主、津軽為信(つがるためのぶ)の三男、2代藩主津軽信枚(つがるのぶひら)によって、慶長16年(1611)に築城されました。当初は鷹岡城と呼ばれており、五重の天守を持つ平山城でした。しかし、寛永4年(1627)に落雷によって天守を焼失してしまいます。雷は最上部の鯱に落ち、下へ下へと燃え広がるうち、ついに天守地下の火薬庫に到達します。そして貯蔵されていた火薬に引火。飛散物は約8km四方におよび、天守爆発の火柱は津軽信枚が当時滞在していた碇ヶ関からも見えたと言われています。弘前城と碇ヶ関の距離は約20km。そのエピソードからは、天守爆発のすさまじさをうかがい知ることができます。

その事件を契機に、津軽信枚は翌寛永5年(1628)に地名をそれまでの「高岡(鷹丘)」から「弘前」に改め、幕府に天守新造を願い出ますが、許可が下りず、弘前城は長らく天守を持たない城となりました。弘前城がようやく天守新造の許可を得ることができたのは、幕末の文化7年(1810)のことです。この時に、本丸の辰巳櫓(南東隅櫓)を改築し、天守代用としました。この三重三階の層塔型の天守代用が、弘前城に今なお残る天守です。

春の桜、冬の雪と、はかなげで美しいイメージのある弘前城ですが、歴史好きの間では関ヶ原の戦い後の数奇な歴史を秘めた城としても知られます。2代藩主津軽信枚が最初に妻にしたのは、関ヶ原の戦いで敗北した石田三成の娘、辰子(たつこ)。ですが、津軽信枚は幕府から徳川家康の養女、満天姫(まてひめ)を正室にするよう迫られ、辰子を上野国へ移してしまいます。しかし津軽信枚の愛は冷めることがありませんでした。のちに嫡男として3代藩主となったのは辰子との子、信義(のぶよし)。彼を養育したのは、ほかならぬ満天姫であったと言われています。
家康と三成。関ヶ原の勝者と敗者。最北の地、津軽には、今も歴史のロマンが秘められています。

所在地:〒036ー8356 青森県弘前市下白銀町1
アクセス:JR奥羽本線「弘前」駅から弘南バス「100円循環バス」で約15分
「市役所前」下車から徒歩すぐ
楽しみ方:まずはお城を訪れて天守を見学。弘前城を巡るエピソードをたどりながらの散策もおすすめ。 


■根城(日本100名城)

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復原された安土桃山時代の根城

根城の創築は鎌倉時代にさかのぼります。南北朝時代に入り、国司代に任命された南部師行(なんぶもろゆき)が建武元年(1334)に城として修築し、陸奥南朝方の拠点となりました。その後、根城は約300年間にわたり、根城南部氏の拠点となります。しかし、戦国時代に入り、豊臣秀吉の諸城破却の命令によって城としての機能を失い、さらには根城南部氏が根城のある青森県八戸市から岩手県遠野市へと領地替えになったことにより、ついに寛永4年(1627)、廃城となりました。

現在、復原整備されているのは、安土桃山時代の根城の姿です。発掘調査の成果を元に、城主が儀式などを行う主殿や、工房、馬屋などが復原されています。主殿の広間では「正月十一日の儀式」の様子が再現されています。これは江戸時代以降の武家にとっても、非常に大事であるとされていた儀式で、広間に武具を飾り、鏡餅を並べて新年を祝う様子は、現在の「鏡開き」の行事によく似ています。根城は平成6年(1994)当時、「中世の城」が復原された初めて事例であり、大きな注目を集めました。
建築物が残っていることが少ない中世城郭の中で、当時の居城が再現されているのは貴重です。

所在地:〒039ー1166 青森県八戸市根城字根城47
アクセス:JR東北新幹線「八戸」駅から市営・南部バス「田面木経由」で約15分
「根城(博物館前)」下車後、徒歩約5分
楽しみ方:復原された施設の見学は必須。約300年の長期間にわたって居城として使用された城郭は貴重。 


■浪岡城(続日本100名城)

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一寸もずれることなく区画されている

浪岡城は、南朝方の重鎮、北畠親房(きたばたけちかふさ)の子孫である浪岡北畠氏によって築城されました。正確な築城年はわかっていませんが、室町時代半ばの寛正元年(1460)前後ではないかと推定されています。浪岡城は未だに謎の多い城であり、後の初代津軽藩主、大浦為信(おおうらためのぶ)の攻撃により落城したとされていますが、その年代も、天正6年(1578)と天正18年(1590)のどちらなのか、まだ定説はありません。敷地はその後、約400年にわたって、田畑として利用されてきました。

浪岡城は、扇形に広がる8つの曲輪(新館・東館・外郭・猿楽館・北館・内館・西館・検校館)で構成された平城です。城の南側を除く各曲輪はそれぞれが水堀で囲まれています。この水堀は、堀の中に通路を兼ねた中土塁が設けられているため、堀が二重になっているという、とてもユニークなものです。水堀の中を通る土塁を通路として使うことで、城全体を「迷路のようにしていた」のではないかと推測されています。

隣接する青森市中世の館では、当時の「生活」が再現されています。これまでの発掘調査により、浪岡城は住むための「居館」であったことが判明しています。当時の人々の姿を想像するのも、城めぐりの醍醐味です。

所在地:〒038-1311 青森県青森市浪岡大字浪岡
アクセス:JR奥羽本線「浪岡」駅から徒歩約30分
楽しみ方:まずは縄張図を入手し、敷地の探索を。「迷路のよう」な曲輪と二重堀の構造は必見。

執筆/城びと編集部

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