昭和お城ヒストリー 〜天守再建に懸けた情熱〜 第9回【熊本城】幾度も傷つきその都度よみがえった不屈の名城

昭和という時代にスポットを当て、天守再建の背景にある戦後復興や町おこしのドラマに迫る「昭和お城ヒストリー」。地震の被害からの復旧に向けて工事が進められている熊本城ですが、今の熊本城の天守は西南戦争で焼失して、その後市民の寄付で再建されたことをご存知ですか? 今回は、過去何度も傷ついては、その都度お城を愛する人に支えられよみがえってきた熊本城のお話をご紹介します!

熊本城、大天守、小天守
震災前に撮影された熊本城大天守と小天守

熊本城を愛する人々の存在が城を存続させる原動力となる

2016年の熊本地震で大きな被害を受けた熊本城。「復興のシンボル」として徐々に往時の姿を取り戻しつつあるが、そもそも熊本城の天守は明治10年(1877)の西南戦争で焼失し、昭和35年(1960)に市民の寄付などにより再建されたものということは広く知られている。しかし、再建工事はこれだけではなく、過去幾度も城が崩れては、その都度、修理を施していることはご存じだろうか。

古くは寛永2年(1625)、加藤清正によって城が創建されてから約20年後のこと。熊本を襲った大地震により熊本城の天守や建物・石垣が崩れ、さらには硝煙蔵が爆発、石垣や瓦が城の外まで飛び散ったという。その後、加藤家の改易を経て熊本に入った細川忠利は、雄大な熊本城が傷ついていることに心を痛め、櫓や石垣、塀など大小約80か所の修復を幕府に嘆願。財政をやりくりし、10年以上に及ぶ大工事で城をよみがえらせた。

忠利の想いは歴代の藩主にも受け継がれた。以降も地震や大雨などの天災により傷つくたび修復が行われ、幕末には老朽化した櫓の再建も行われている。

そうして幕末までの約260年間、ほぼ創建当時の姿で明治維新を迎えた熊本城だったが、明治に入ると陸軍の管理下に置かれ、西出丸の石垣の撤去など、軍によって手が加えられることとなる。

熊本城、西南戦争
西南戦争での熊本城攻防戦を描いた『鹿児島の賊軍熊本城激戦図』(国立国会図書館蔵)

そして西南戦争である。明治10年(1877)2月19日、西郷隆盛率いる薩摩軍の進軍を受け、熊本城には熊本鎮台約3000の兵が立て籠もっていた。そんな中、昼前に突如天守から火の手が上がった。この火災で、惜しくも熊本城の天守や本丸御殿、櫓などの建築物の大半が焼失、城下町も焼き尽くされた。薩摩軍の総攻撃を受ける2日前の出来事だった。

なぜ火災が起こったのだろうか。戦術的に鎮台が自ら焼いた「自焼説」、不注意による「失火説」、薩摩軍のスパイが火を放ったとする「放火説」と長らく議論が続いているものの現在も決着はついておらず、真相は闇の中である。

災難はこれで終わりではなかった。明治22年(1889)の熊本地震(金峰山地震)により、城内の42か所で石垣が崩落、20か所で石垣に膨らみが生じ、7か所で崖が崩落するという被害を受けたのだ。この復旧は陸軍が行ったが、現在の価値で35億円もの費用が計上されたという。

再建費用の4分の1を出資した松崎吉次郎氏の功績

大正に入ると、軍縮の影響もあって熊本城の保存を満足に行うことができなくなってしまう。そして、荒廃の進んだ熊本城の中でもとりわけ倒壊の恐れがあったのが、宇土櫓だった。瓦が落ち、柱が歪み、往時の堂々たる面影がなくなったその姿を憂いた人々は、大正15年(1926)1月に「熊本城址保存会(現熊本城顕彰会)」を発足させる。

退役軍人や民間人を中心として結成された保存会は、西南の役50周年記念事業として、宇土櫓修復の寄付金を募ったところ、県外や海外からも寄付金が届き、昭和2年(1927)に宇土櫓の解体修理を着工することができた。この時、五階櫓の地下部分はコンクリートで補強され、内部は鉄骨製の筋違いで補強された。

よみがえった宇土櫓は、一般市民に開放され多くの人々で賑わうこととなり、熊本城のシンボルとなる。この宇土櫓再建がきっかけとなり、天守再建計画が一気に加速していく(はずだった)。

宇土櫓の修理が完了した昭和3年(1928)には市議会が満場一致で天守再建が議決されるも、計画は難航。昭和12年(1937)にも熊本城の天守再建計画が持ち上がるが、いずれも資金難で計画は頓挫してしまう。

そうこうしている間に日本は太平洋戦争へと突入し、熊本城天守再建の夢は途切れてしまうように見えた。だが、戦後の復興が進む昭和30年(1955)、熊本市は加藤清正生誕350年と熊本国体開催の年に当たる昭和34年(1959)の天守再建を目指し、予算を計上した。その見積もり額は2億円(大卒の初任給が1、1万円)。熊本城天守再建の火は絶えていなかったのだ。

とはいうものの、2億円もの予算はなかなか確保できず、またも再建計画は頓挫するかに思えた。そんな時、「さあ受け取って下さい」と5千万円もの寄付を申し出た人物が現れる。熊本市内で金融業を営む松崎吉次郎氏(当時71歳)である。

熊本市で生まれ、天守のない熊本城を見て育った松崎氏は、若い頃から「熊本城を建てたい」と語っていたという。「株で儲けたらオレの手でお城を復元したい」という積年の夢を叶えるため、財産のほとんどを寄付したのだ。まさに男のロマンである。熊本城の再建費用は1億8千万円、国の起債が3千万円なので、松崎氏の寄付は実に予算の4分の1を占めた。

熊本城、大天守、小天守
足場が残る完成間近の熊本城大天守と小天守(熊本城総合事務所協力/大林組提供)

これをきっかけに熊本城の天守再建の動きが加速。募金を行うと瓦に名前が記される「瓦募金」などの募金活動も活発化し、昭和34年に天守再建工事が起工。鉄筋コンクリート造りではあるが、屋根瓦の数や並べ方までも西南戦争前に撮影された古写真をもとに忠実に再現され、翌年8月、83年ぶりに熊本城に天守がよみがえった。

その後、平御櫓、馬具櫓と再建が続き、昭和56年(1981)の西大手門の復元からは資料にもとづいた木造による復元が行われるようになった。平成に入った後も数寄屋丸二階櫓、南大手門、飯田丸五階櫓などの復元、さらには西南戦争で天守とともに焼失した本丸御殿の復元と、熊本城は次々にかつての姿を取り戻していく。だが2016年、またもや熊本県を震度6強の大地震が襲う。

熊本城の被害は倒壊・崩落・一部損壊等を含め宇土櫓など重要文化財建造物13棟をはじめ、再建・復元建造物20棟すべてが被災し、石垣は全体の約3割に当たる約23,600㎡に崩落や膨らみ・緩みなど修復を要する箇所が見受けられるなど甚大なものだった。

いつの世の熊本城も、城の復興を願う人々の想いで再建が行われてきた。復旧の状況は熊本城の「いま」を参照されたいが、震災後、熊本城は「震災のシンボル」と位置付けられ、復旧のために全国から援助が寄せられている。

復旧が進む天守は2019年10月5日に外観の復旧工事を終える見通しとなっている。ちょうどその翌日には、熊本でラグビーワールドカップの試合が行われる予定で、国内外からも多くの人出が見込まれる。

着々と復興が進む熊本城。今しか見られない風景もそこにあるはず。機会があれば訪れてみてはいかがだろうか。


熊本城(熊本県熊本市)
熊本城は熊野平野を望む小高い丘陵である茶臼山に、加藤清正によって築かれた城。清正は慶長12年(1607)年の城の完成とあわせて隈本を熊本へと改めた。寛永9年(1632)の加藤家改易にともない細川忠利が熊本に入り、明治維新まで細川家によって城は管理された。

執筆者/かみゆ歴史編集部(丹羽篤志)
ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。かみゆ歴史編集部として著書・制作物多数。

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