超入門! お城セミナー 第43回【鑑賞】最近新発見で話題の「金箔瓦」って何か特別な意味があるの?

初心者向けにお城の歴史・構造・鑑賞方法を、ゼロからわかりやすく解説する「超入門! お城セミナー」。今回は、2018年10月に駿府城から発見され、話題となった金箔瓦。織田信長・豊臣秀吉によって広められた金箔瓦を大名達はどのような意図で自分の城に取り入れたのでしょうか? 

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2018年10月に発見された駿府城の金箔瓦。野面積の天守台とともに見つかり、豊臣時代の駿府城で使われたのもだと考えられている(静岡市観光交流局提供)

当初は天下人の権力の象徴として飾られた“金箔瓦”

将軍を引退した徳川家康が「大御所」として晩年を過ごした駿府城(静岡県)。発掘調査で新たに発見された、豊臣系の大名が城主だった頃のものとみられる天守台から、金箔で装飾された瓦(金箔瓦)が330点も出土したことが、2018年10月にニュースになりました。春には真田氏の居城・上田城(長野県)での金箔瓦の出土も報道されましたし、他にも豊臣秀吉晩年の居城だった伏見城(京都府)など、近年、城跡の発掘調査で金箔瓦が出土するたびに話題になっています。この金箔瓦、わざわざ報道されるということは、ほかの瓦とは違った何か特別な意味があるのでしょうか? 今回は、城を華麗に彩った「金箔瓦」についてのお話です。

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2018年春に本丸から金箔瓦が出土し、話題となった上田城。この城からは昭和時代にも金箔瓦が見つかっている

掘立小屋のような簡易な建造物しかなかった城に、礎石を用いた瓦葺きの本格的な建造物が全面的に採用されたのは、織田信長の安土城(滋賀県)が最初だとみられています。金箔瓦の城での本格使用もこの時がはじめてで、広い水堀や山全体にめぐらされた石垣群の向こうに金色に輝く建造物群は、当時の人々の度肝を抜きました。こうして「見せる」城・近世城郭の歴史がはじまったわけですが、このスタイルの築城は信長時代には「許可制」のようなもので、一門衆や重臣といった限られた武士たちだけに許された特権でした。特にきらびやかな金箔瓦は、織田政権の財力・権力の象徴的な存在だったようです。

信長亡きあとに天下人となった豊臣秀吉は、安土城を上回る規模の大坂城(大阪府)で金箔瓦をふんだんに使用して、自分が信長後の正統な天下人であることを目に見える形でアピールしました。そしてやはり豊臣家の一門や重臣たちの間で普及し、これらの城の普請を担当した大名たちが自領に築城技術を持ち帰ったことによって、近世城郭の普及とともに金箔瓦も全国に広まっていきました。

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秀吉が築いた聚楽第跡からは、大量の金泊瓦が出土している(京都市埋蔵文化財研究所提供)

秀吉の時代になって徳川家康は関東に国替えとなり、家康の旧領だった城には豊臣系の大名が配されました。これらの城からは、冒頭の駿府城や上田城の例のように金箔瓦が出土していますが、関東の家康の新領地からは出土例がありません。このため、関東を取り囲むように配された豊臣系の大名たちに金箔瓦を使用させることで、豊臣家の権威を見せつけて家康を牽制していたのではないかとする説があります。

しかし近年、全国で城跡の発掘作業が進むにつれて金箔瓦の出土も相次ぎ、豊臣政権下ではその使用範囲が中国・九州地方にまでわたる全国的なものであり、しかも豊臣一門やその重臣に限らず、島津氏の城だった佐土原城(宮崎県)のように地方の有力大名の城でも使用されていることが分かってきました。

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豊臣秀吉の猶子(ゆうし)として重んじられた宇喜多秀家の居城・岡山城天守にも、金箔瓦が葺かれていたと考えられている。昭和に外観復元された現天守の軒丸瓦も、史実を反映した金色となっている

このため、金箔瓦の使用によって「豊臣政権の」権威を誇示したり、金箔瓦の使用によって自らの「政治的な派閥」などを明らかにしたというわけではなく、単に各大名が「自分の」権威の象徴として使用したのではないかともみられています。全国の大名たちが、天下人の城を参考にした上で自分好みの近世城郭をデザインして築城したように、金箔瓦の使用もあくまで各大名の自由意志だったのではないか?ということなのです。全国の城の調査が進むにつれ、この先も色々なことがわかってくるかもしれませんね。

金箔瓦が使われたのは屋根のごく一部

城が金箔で飾られていたと聞くと、金閣寺のように建物の屋根すべてが金ピカだったと思う人もいるかもしれませんが、金箔瓦は実際にはどのように使われていたのでしょうか。

実は、屋根全体に葺かれていたわけではありません。金箔が貼られていたのは屋根の先端である軒先を飾る「軒丸瓦(のきまるがわら)」と「軒平瓦(のきひらがわら)」のみで、この軒瓦の紋様を目立たせるように貼られていました。軒先の他、鬼瓦や家紋の「飾瓦(かざりがわら)」、「鯱瓦(しゃちがわら・しゃちほこがわら)」などでも金箔が使われていた例もありますが、いずれにしても金箔瓦は、屋根全体の中でもポイントとなる部分だけに使われていたようですね。

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軒丸瓦は筒を縦に割ったような形状の先端に円形の紋様部分がついている。紋様は巴紋や城主の家紋などが多い。軒平瓦は湾曲した平たい瓦で、軒先に使われるため先端に唐草などの紋様が施されている

最後に、知っておくと自慢できるかもしれないポイントをひとつ。

信長時代と秀吉時代では、実は同じ金箔瓦でも金の使い方が異なるのです。安土城出土の金箔瓦から、信長時代のものは装飾瓦のへこんだ部分(地の部分)に金箔が貼られ、模様部分を黒く浮かび上がらせるという使い方がされていたことが分かります。対して伏見城や聚楽第(京都府)、また聚楽第城下の大名屋敷跡から出土した金箔瓦は、その逆の紋様部分や縁の部分に金箔が貼られています。

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紋様が黒く浮かぶように金箔が貼られた安土城の瓦(左/滋賀県教育委員会提供)と、紋様自体や縁の部分に金箔が貼られた伏見城の金箔瓦(右/京都埋蔵文化財研究所提供)

また、金の純度は信長時代の方がダンゼン高いとか。秀吉時代の金箔瓦は、欠けた部分にムリヤリ金を貼るなど再利用の瓦もあり、天下人の地位固めのために、とにかく迅速かつ視覚的に分かりやすい築城が必要だったことや、信長時代からの脱却をはかろうとする秀吉の意志が伝わってくるようです。

資料館などで金箔瓦が展示してあるのを見つけたら、ぜひすみずみまでじっくり観察してみて下さい。築城時の大名たちの心の内まで読み取れるかもしれません。


執筆・写真/かみゆ
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。かみゆ歴史編集部として著書・制作物多数。

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