超入門! お城セミナー 第42回【構造】城の「壊し方」にもルールがあったって本当?

初心者向けにお城の歴史・構造・鑑賞方法を、ゼロからわかりやすく解説する「超入門! お城セミナー」。今回は、「使われなく城はどうなったか?」について解説します。使われなくなっても普通は放置されるだけなのですが、破壊された城も多くありました。わざわざ破壊するのはどのようなケースだったのでしょうか。そして、どのような方法で壊されたのでしょうか。



肥前名護屋城、お城セミナー
朝鮮出兵の前線基地となった肥前名護屋城。破壊された石垣をそのまま保存・展示している

せっかく造った城を壊す理由とは?

物事にははじまりがあれば必ず終わりがあるもの。あんなに親しんでいたおもちゃやぬいぐるみが壊れてしまって、もう遊べなくなった経験は誰にでもあることでしょう。日本には「兵(つわもの)どもが夢の跡」なんて素敵な言葉がありますが、藤原氏の栄華も織田信長の強権も徳川幕府の盤石な制度も、必ず終わりを迎えています。

はじまりと終わりがあるのはお城も同じこと。城のはじまりは「築城」ですが、終わりはなんというでしょうか? そう、「廃城」です。ただし、戦国時代頃は「廃城」という言葉は使われておらず、城を廃棄することを「城破(しろわり、城割とも)」とか「破城(はじょう)」と記しています。また、解説書などでは「城を破却する」という表現によく出会いますが、「破却」という言葉も歴史的に使われていたわけではありません。

それでは、せっかく造った城を“壊す”のはどんなときか? 当然、その城を使わなくなったときなのですが、使わないだけであれば、わざわざ壊したりしなくても、放置するだけでよいのです。わざわざ人為的に壊すからには、“壊す”だけの理由がありました。

戦国時代だと、合戦後の和平条件として城が壊された例があります。小牧・長久手の戦いというと、豊臣秀吉と徳川家康による直接対決として有名です。局地戦における家康の勝利が喧伝されることもありますが、合戦のほとんどは現在の愛知県・三重県全域を舞台にした持久戦であり、陣取りのために何十という城が築城・改修されました。そうした城のいくつかは、和睦成立後に「城破」が行われたことがわかっています。両軍どちらの城もその対象になっており、城を壊すという行為が和平の証明であり象徴であったわけです。

壊された城を見ていくと、支配大名の変更にともなう例も多く見られます。例えば織田信長の命で中国出兵をした秀吉は、赤松氏を配下にするとその居城であった置塩城を破城にして、その部材を新しい居城である姫路城(どちらも兵庫県)に利用しました。また、関ヶ原合戦後に彦根を与えられた井伊直政は、石田三成が居城としていた佐和山城を徹底的に破壊して、彦根城(どちらも滋賀県)を新築しました。彦根城建築のさいにも、佐和山城の建材や石垣が再利用されています。こうした例から、わざわざ城を壊すという行為は、領民に対して支配者が変わったことを示すシンボルになっていたことがうかがえます。大坂夏の陣で秀吉が築いた大坂城(大阪府)が焼失したのち、徳川幕府がいったんそれを埋め立てて、まったく異なる様相の城を築き直したのも、同じ理由だといえるでしょう。

佐和山城、お城セミナー、石垣
佐和山城に残る石垣跡。破却された石垣は彦根城築城に用いられた

再利用されることを嫌って城を壊した例もあります。代表的な例が秀吉の朝鮮出兵の前線基地となった肥前名護屋城(佐賀県)。島原の乱でほったらかしだった原城が一揆勢の拠点となったことに危機感を抱いた幕府が、今度は名護屋城に籠もられたら困るという理由で破壊したのです。名護屋城に限らず、北九州の多くの山城が島原の乱後に破城の憂き目にあったといいます。

破城の基本は建物・虎口・石垣から

それでは、城破はどのように行われ、どこまで壊されたのでしょうか。前半で解説したとおり、城を壊すということは、和平の成立や領主交替を示す“象徴”的な行為でした。 “象徴”である以上、「城が壊された」という事実が見た人や世間一般に広まればいいわけです。見た目にわかりやすいということで、まずは建物が破壊の対象になることが多かったようです。

例えば、秀吉が北条氏を滅ぼした小田原攻めでは、小田原城に限らず関東の多くの城が落城していますが、秀吉は落城した城の戦後処理として、「塀や家(屋敷)は壊して、それ以上城破をしなくてよい」と命じています。この場合の破城の意図は、関東の支配者である北条氏が滅びたことを万民に知らしめることでしたが、それは建物を破壊すれば見てわかるから、それ以上手間暇のかかる撤去は不要ということでしょう。

象徴という点では、虎口(城の出入り口)も多くの城で城破の対象になっています。虎口は城下町や街道に面している場合が多く、最も多くの人が往来する場所であり、虎口が破壊されたらそもそも城に入れないわけですから、「城が破壊されたことを広く知らしめる」という意味ではとても適しています。関東の名城・滝山城は、大手に枡形虎口を設けていましたが、破城となって枡形を埋め、さらに土手を築いて虎口の通行を遮断していました。滝山城は北条時代の縄張がそのまま残っているがゆえに“名城”なわけですが、虎口だけは徹底的に壊すことで城破になったことを示したわけです。全域に破城の跡を残す若桜鬼ヶ城(鳥取県)でも、枡形虎口を埋めるように石垣が破壊されています。

滝山城、虎口、お城セミナー
破壊された滝山城大手の虎口。現在は虎口跡に舗装道路がつくられ、往時の面影を残していない

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若桜鬼ヶ城の虎口。石が枡形虎口の内側に落とされている

さて、前述したとおり城が壊されたケースには、和平や領主交替だけではなく、再利用されることを嫌った例もありました。再利用を防ぐためには、城の機能を停止させる必要がありますが、かといって城の縄張すべてを撤去したり埋め立てたりするには時間も費用もかかるもの。そこでとられた手段が、石垣や土塁を壊すという方法です。石垣が破壊された例としてわかりやすいのが、先ほども登場した肥前名護屋城。まず目立つのが、石垣の隅部の崩落でしょう。隅には櫓などの建造物が建つケースが多く、また横矢を掛けるなど防御機能としても重要な場所。この部分を破壊することで、城の機能を低下させたわけです。肥前名護屋城ではまた、V字に削り取られたかのような石垣も多く見られます。石垣上に多聞櫓や塀が建つのを防ぐとともに、V字にして目立たせることで、軍事性が放棄されたことを示したようです。

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肥前名護屋城の破壊された石垣の隅部

以上見てきた、建物・虎口の破壊や、石垣の隅部を崩す、V字に崩すという行為は、戦国時代から江戸時代初期にかけて全国で普遍的に見られます。先ほどから説明しているとおり、破城はある種のシンボル的行為であり、破城となったことをわかりやすく周囲にアピールするために、壊し方にも一定の作法(ルール)があったわけです。用済みとなってもなお利用されるお城は、この点からも権力の象徴的存在だったといえるでしょう。


執筆・写真/かみゆ
ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。かみゆ歴史編集部として著書・制作物多数。

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