都道府県のお城シリーズ 【大阪府のお城】鎌倉幕府滅亡から徳川幕府誕生まで!お城の醍醐味が凝縮!

大阪府には、日本100名城の大阪城(大阪市)、千早城(千早赤阪村)、続日本100名城の芥川山城(高槻市)、飯盛城(大東市および四條畷市)、岸和田城(岸和田市)などのお城があります。難攻不落のお城が揃う、大阪府のお城をご紹介します。



大阪城、豊臣時代、天守、再現
豊臣時代の天守を再現した大阪城3代目天守

大阪府にあるお城のうち、最も有名なお城といえば大阪城(大阪市)。大阪府からは、大阪城のほか、千早城(千早赤阪村)が日本100名城に、芥川山城(高槻市)、飯盛城(大東市および四畷市)、岸和田城(岸和田市)が続日本100名城に選ばれています。

■大阪城(日本100名城)

大阪城、桜
日本さくら名所100選にも選ばれている大阪城の見事な桜

大阪城は、天正13年(1585)に豊臣秀吉によって築かれました。別名は錦城。金城とも呼ばれます。現代でも日本三名城に数えられる天下の名城です。

豊臣秀吉によって築かれた大坂城は、黒漆塗りの下見板に金箔瓦を用いた豪華絢爛なお城でした。しかし、豊臣大坂城は、大坂夏の陣により、豊臣家の滅亡とともに失われてしまいます。

豊臣家滅亡後、2代将軍徳川秀忠は、豊臣大坂城を埋め立てて土台とし、豊臣大坂城を覆い隠すように新たな徳川大坂城を築きます。寛永3年(1626)、豊臣時代の天守を上回る規模の白漆喰総塗籠の壮大な天守が新造されました。後に落雷で焼失し、天守の再建は昭和6年(1931)まで待たれることとなります。現在の天守は、豊臣時代の天守の復興を目指したもので、五重八層の望楼型天守です。

大阪城の縄張は、豊臣時代は黒田孝高(くろだよしたか)、徳川時代は藤堂高虎(とうどうたかとら)と、築城の名手が手がけました。本丸、石垣、堀のほか、千貫櫓、乾櫓、一番櫓、六番櫓、金蔵、焔硝蔵(えんしょうぐら)などの遺構を見学することができます。

所在地:〒540-0002 大阪府大阪市中央区大阪城1-1
アクセス:JR環状線「大阪城公園」駅、「森ノ宮」駅下車、徒歩15分。
楽しみ方:城跡見学、大阪歴史博物館

■千早城(日本100名城)

千早城、二の丸、千早神社
二の丸にある千早神社までここから約30分の登山

千早城は鎌倉時代末期の武将、楠木正成(くすのきまさしげ)が、金剛山(標高1125m)の中腹に築いた山城です。

本丸、二の丸、三の丸、茶屋の壇、空堀、武者隠などの遺構や、曲輪跡や空堀、竪堀、堀切などが見られます。楠木正成は、下赤阪城を出丸、上赤阪城を本丸として造り、千早城は詰めの城にあたります。現在、二の丸跡には千早神社があります。

築城されたのは元弘元年/正慶2年(1332)。翌年の赤坂・千早城攻防戦において、楠木正成は鎌倉幕府の大軍100万人に対して、1000人の兵で籠城し善戦。約100日にわたって幕府軍を千早城に釘付けにすることに成功します。この間、新田義貞(にったよしさだ)が東国で挙兵し、手薄になった鎌倉へ進軍。これにより、北条高時(ほうじょうたかとき)らが自害し、鎌倉幕府は滅亡しました。

その後、南北朝時代に畠山氏に攻められ落城。千早城は廃城になり、現在に至ります。

所在地:〒585-0051 大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早1228
アクセス:近鉄長野線「河内長野」駅下車、南海バス「金剛登山口」から徒歩20分。近鉄長野線「富田林」駅下車、金剛バス「金剛登山口」から徒歩20分。
楽しみ方:城跡見学 ハイキング

■芥川山城(続日本100名城)

芥川山城、三好長慶、畿内支配
三好長慶による畿内支配の拠点となった

芥川山城は、細川高国によって、遅くとも永正13年(1516)までに築かれたと考えられています。以降、摂津守護である細川氏が使用していましたが、天文22年(1553)の三好長慶(みよしながよし)による畿内支配にともない、三好氏の所在となりました。永禄11年(1568)以降、足利義昭の武将、和田惟政(わだこれまさ)が城主となり、彼の家臣に預けられました。

三好山に築かれた芥川山城は、城の三方を芥川に囲まれた天然の要害です。山頂の主郭を中心に曲輪が展開し、戦国時代の典型的な連郭式縄張を持つ山城の姿が見て取れます。現在も曲輪、土塁、竪土塁、堀切、石垣などの遺構が残されています。

所在地:〒569-1051 大阪府高槻市大字原
アクセス:JR京都線「高槻」駅下車、高槻市営バス「塚脇」から徒歩30分。
楽しみ方:城跡見学 ハイキング

■飯盛城(続日本100名城)

飯盛城、三好長慶、
三好長慶は芥川山城から飯盛城に拠点を移した

飯盛城は、大東市と四條畷市とにまたがる飯盛山に築かれた山城です。飯盛山は、一見なだらかな山に見えますが、谷や断崖を持つ天然の要害。現在は虎口、千畳敷曲輪石垣、高櫓曲輪、御体塚曲輪などの郭群、土橋、石垣、土塁、切岸が遺構として残っています。飯盛城は、南北に伸びた尾根に曲輪が配置された連格式縄張の山城で、最盛期は約70もの曲輪が築かれていました。その規模は近畿地方で最大級のものです。

築城は16世紀半ばとされ、河内守護畠山(はたけやま)氏の家臣木沢長政(きざわながまさ)が築いたと考えられています。その後、芥川山城から飯盛城へ拠点を移した三好長慶が飯盛城に入り拠点としました。三好長慶の死後は高屋城(大阪府羽曳野市)に三好氏の拠点が移り、天正3年(1575)の織田信長による河内にある諸城の破却により、廃城になったとみられています。

所在地:〒574-0011 大阪府大東市大字北条、〒575-0022 大阪府四畷市大字南野
アクセス:JR学研都市線「四条畷」駅下車、徒歩1時間。同「野崎」駅下車、徒歩1時間半。
楽しみ方:城跡見学 ハイキング

■岸和田城(続日本100名城)

岸和田城、天守
昭和29年(1954)に建造された3層3階の天守

岸和田城は、輪郭式の縄張を持つ平城です。変則多角形の本丸を水堀で囲み、さらに二重三重に防御が施されていました。別名は千亀利城(ちきりじょう)

築城時期はよくわかっていませんが、伝承では鎌倉時代末期、建武新政ごろであるといわれています。この頃に築かれた岸和田古城は現在より北東500mに位置していました。岸和田城が現在の位置に移されたのは戦国時代だとされています。以降、永禄年間(1558〜70)にかけて松浦肥前守(まつらひぜんのかみ)が、次いで豊臣氏の家臣中村一氏(なかむらかずうじ)、秀吉の従兄、小出秀政(こいでひでまさ)らが城主となり、改修を加えています。寛永17年(1640)、岡部宣勝(おかべのぶかつ)の時代に城が完成し、明治維新に至るまで岡部氏が城主を務めました。

維新期に城郭施設を破壊したため、堀と石垣のみが当時の遺構として残されています。天守、城門、櫓などは近代復興ですが、天守からは大阪湾を眺望することができ、往時の姿を思い起こさせてくれます。

所在地:〒596-0073大阪府岸和田市岸城町9-1
アクセス:南海電鉄南海本線「岸和田」駅下車、徒歩13分。同「蛸地蔵」駅下車、徒歩8分。
楽しみ方:城跡見学 庭園散策

執筆/城びと編集部

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