戦国武将と城|小和田哲男 <織田信長と城>第4回 安土城は伝二の丸が本丸だった!?

日本城郭協会理事長  小和田哲男先生による「戦国武将と城」をテーマとした講座。織田信長編の第4回は安土城です。安土城を描いた絵図としては一番古い「貞享古図」に描かれた曲輪配置とその名称が、安土城の縄張を語る場合の基本とされてきましたが…。

古図の本丸・二の丸表記は正しいか

安土城を描いた絵図としては、一般的に「貞享古図」とよばれているものが一番古い。これは、信長の百回忌にあたって作成されたと推定されているもので、「近江国蒲生郡安土古城図」とあり、「貞享四丁卯年仲秋作之」とみえ、貞享4年(1687)当時の安土城址の状況を描いたものとされている。

そこに、「天守」を中心に、西側に「二の丸」、南東側に「本丸」という形で曲輪配置とその名称が書きこまれ、これが安土城の縄張を語る場合の基本とされてきた。安土城址にある摠見寺所蔵図をはじめ、早稲田大学図書館所蔵図など、同種の絵図が広く流布しているため、現在の天主台の西側にある信長廟のある曲輪は、これまで、二の丸といわれてきていたのである。

安土城、伝二の丸下
安土城 伝二の丸下

ところが、そこを二の丸とすると、ルイス・フロイスの『日本史』や、太田牛一の『信長公記』の記述と齟齬をきたすことになる。たとえば、フロイスの『日本史』では、「信長は、本丸御殿と廊下続きで往来が可能な別の御殿も造営した」と述べているように、天主と本丸御殿が廊下でつながっていたと記すが、現在の天主台と、現在いわれている本丸とはかなりの高低差があり、廊下で結ぶのは無理と思われる。

この点については、すでに秋田裕毅氏が『織田信長と安土城』の中で、「廊下といっても、本丸平面と現状の天主石垣上端でも十二m近い高低差があるから、直接連結されていたとすれば相当な急勾配であったことになる」と述べている。

私はこの記述を読んだとき、漠然と、「これまで本丸とよばれていたところは本当は本丸ではなかったのではないか」と考えたが、それ以上考察を進めることはしなかった。

伝二の丸(本丸)に「御幸の御間」があった

現在、二の丸といわれているところが実は本丸だったのではないかと指摘したのが加藤理文氏である。氏は『織田信長の城』において、太田牛一の『信長公記』にみえる天正10年(1582)正月における諸将の「御幸の御間見学」のルートを検証し、現在二の丸といわれている場所(加藤氏は伝二の丸と呼称)が本丸で、そこに「御幸の御間」もあったと推定しており、卓見と思われる。

安土城、伝本丸
安土城 伝本丸

なお、『信長公記』の記載からは、現在、本丸といわれているところは「南殿」という建造物があったことがわかり、通称三の丸といわれているところも『信長公記』では「江雲寺御殿」という建造物があったことがわかる。三の丸といういい方をしていないことも注目される点である。

そうなると、通称「本丸御殿」といっていたのもまちがいで、正しくは「南殿」ということになる。「南殿」は平成11年(1999年)に行われた発掘調査の結果、礎石配置から、京都の清涼殿の間取りと同じだったことが明らかにされ、それと「御幸の御間」が同じものという解釈だったわけであるが、それも別のものだということがわかってきた。

安土城、天主台礎石
安土城 天主台礎石

これまで二の丸といわれてきたところが本丸となると、本丸といわれてきたところが二の丸ということになるのかは、今後、もう少し検討が必要と思われる。

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小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。

著書『戦国武将の手紙を読む 浮びあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
  『井伊直虎 戦国井伊一族と東国動乱史』(洋泉社、2016)ほか多数

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