超入門! お城セミナー 第38回 【歴史】大阪城が秀吉の城じゃないって本当? 

初心者向けにお城の歴史・構造・鑑賞方法を、ゼロからわかりやすく解説する「超入門! お城セミナー」。今回のテーマは大阪城。天下人・豊臣秀吉が築いた城として有名な大坂城ですが、実は秀吉の大坂城は大坂夏の陣で焼失しています。では現在、大阪に建つ城は誰が建てたものなのか。意外と知られていない大阪城の真実に迫ります。なお、「大阪」という表記は明治時代以降に正式となったものなので、今回の記事では江戸時代以前の大阪城を指す場合は「大坂城」の表記を使用しています。

大坂城、天守
大阪のシンボルとして親しまれる大阪城。実は現在の天守は三代目なのだ

徳川幕府に建て直された大坂城

つゆと落ち つゆときへにしわが身かな なにわの事もゆめのまたゆめ

さて、この歌は誰が詠んだものでしょうか? 答えは、太閤・豊臣秀吉。この世を去る時に詠んだ辞世の歌です。秀吉が「ゆめのまたゆめ」と追想した「なにわ」とは、大坂のこと。秀吉の城といえば、大阪城(大阪府)をまっ先に思い浮かべる人も多いでしょう。地元大阪の人たちにも大阪城は「太閤はんのお城」として愛されています。大阪城内には秀吉を祀る豊国神社が鎮座し、秀吉の銅像前は観光客に人気の撮影スポットです。ところがこの城、実は秀吉の城ではないのです。この事実が一般に認識されてきたのは近年のことなので、「そんなわけないでしょ!」という人の方が現在も多いかもしれません。

豊國神社、豊臣秀吉、銅像
大阪城内に鎮座する豊國神社には秀吉の銅像も立てられている

周囲の高層ビルをものともしない威厳で、大阪の上町台地に現存する大阪城の破格の遺構。これを建てたのが秀吉でなければ、誰が建てた城なのでしょうか?これはまぎれもなく、徳川幕府が築いた城なのです。一体どういうことなのか。大坂城の簡単な歴史をひも解いてみましょう。

ここはもともと、織田信長が長年戦った石山本願寺があった場所で、本願寺が退去した後に信長が城を築く予定でした。しかし本能寺の変で信長は急逝。その後の覇権争いに勝って天下人となった秀吉が、空前の規模の大坂城を築いて政権の拠点としたのです。しかし秀吉の死後に大坂の陣で落城。大御所・徳川家康の指示のもと、徳川幕府の二代将軍・徳川秀忠が築城主となって、現在残る大阪城が新たに築かれました(現在の天守は昭和の復興天守)。

徳川幕府は、焼け落ちた豊臣の大坂城の上に盛り土をして完全に埋めてしまい、その上にまるごと新しい徳川の大坂城を築きました。秀吉が築いた大坂城を消し去って、さらに大きな徳川スタイルの城を築くことで、徳川時代の到来を目に見える形で示したのです。

徳川秀忠、復元イラスト、大坂城
徳川秀忠が築かせた天守の復元イラスト。豊臣天守とは打って変わった白い天守で、徳川の世をアピールした(イラスト=香川元太郎)

天守は現在で三代目。初代・豊臣時代の天守は今よりも北東の奥まった所にあり、五重六階地下二階建てで、黒漆塗りの下見板張。漆喰部分まで暗色にした黒い天守で、金の装飾を際立たせたようです。残念ながら大坂夏の陣で焼失してしまいましたが、その堂々たる姿は大坂城天守閣が所蔵する『大坂夏の陣図屏風』などの史料で確認することができます。二代目・徳川時代の天守は、五重五階地下一階建て。外観は初代から一転して漆喰を塗り籠めた白い天守で、高さは天守台を含め破格の58mだったとか!(安土城天主は32m、豊臣大坂城天守は40m)

大阪城、天守
1931年に再建された現在の大阪城天守。初代は30年、二代目は41年で焼失しているため、実は現在の天守が最も長命である

それでも大阪城は太閤はんのお城!

それにしても、これほど大規模な城の築城者が、なぜ近年まで間違った認識をされていたのでしょうか? 大坂城は幕府直轄の城だったので、城主は歴代将軍その人なのですが、幕末まで将軍自身の入城はほとんどナシ。徳川嫌いで反骨精神あふれる大坂の民は豊臣への愛着を捨てられず、「あくまでもここは太閤はんのお城や」と言い続け、そしていつしか徳川の城という事実が、忘れ去られてしまったというのです。

こうして時は流れて昭和の時代。1959年の学術調査で地下から火事の痕跡のある「謎の石垣」が見つかったことと、1984年の水道工事に伴う調査でのさらなる石垣の発見によって、豊臣の大坂城が地下深くにそのまま眠っていることがわかった(思い出した?)のです。市民のショックを憂慮して大々的な発表は控えたともいいますが、新聞にはちゃんと掲載されたようです。

ドーンセンター、石垣、豊臣期、大阪城、
ドーンセンター前の豊臣期石垣。ドーンセンターは大阪城の筋鉄門から徒歩5分ほどの場所なので、城見学の後に寄ってみよう

ちょっと信じ難いようなおもしろエピソードですが、それでも大阪では「太閤はんのお城」の意識が今もそのまま。現・復興天守の平成の改修時にまた徳川の城であることが一部で思い出され(?)たようで、「天守まるごと太閤はん時代の外観に統一して!」という声は多いとか。いつの日か大阪城に黒い天守が復活することになるのでしょうか?

例の「謎の石垣」は天守前広場の地下にあって非公開ですが、後で発見された石垣に関しては、募金を募りつつ公開施設の計画が進行中です。現在見られる貴重な豊臣時代の石垣は、京橋口からすぐの三の丸にあたる場所。移築・積み直しされたものですが、大阪府立男女共同参画センター(ドーンセンター)前、日本経済新聞社前、追手門学院小学校外壁の3か所で見ることができます。現在の大阪城の石垣とは全く違うことがよく分かると思います。

大阪城、石垣、イメージ図
大阪市では発掘された豊臣期の石垣を公開するための施設建設を進めている。画像は施設の完成イメージ図(大阪埋蔵文化財センター提供)

地元大阪では、築城者の一件を知っていても、見て見ぬフリ&そのやり方が気に食わず、徳川嫌いが加速しているきらいがあるようです。でも、日本一の高石垣や巨石群など、とにかくスゴイ大阪城のこと、実は自慢で大好きなのです。「せやからやっぱり太閤はんはスゴイわ!」と、手柄はあくまで秀吉なのですが、心の中では「家康もまあまあやりよるやん…」と思っているのです、きっと。


執筆・写真/かみゆ
ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。かみゆ歴史編集部として著書・制作物多数。

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