明治維新150周年企画「維新の舞台と城」 西南戦争編 第2回【鹿児島城】西郷隆盛、死を覚悟した最後の決戦

幕末維新の事件の舞台となった城を紹介する「維新の舞台と城」の西南戦争編。不平士族を率いて明治政府に対して挙兵した西郷隆盛は九州制圧のために熊本城(熊本県)を包囲するが、戦国時代の名将・加藤清正の手による堅固な防御に手も足も出ず敗走する。故郷・鹿児島まで落ち延びた西郷隆盛が取った行動とは―?



民主主義国家を目ざす明治新政府はすべての国民を平等にするため、江戸時代から続いた武士を特権階級とする身分制度を廃止しました。このため武士たちは給料が大幅に減り、武士の魂である刀すら身につけることを禁じられます。これに不満をつのらせた武士たちは、新政府と意見を違えて故郷の鹿児島に帰っていた西郷隆盛を旗頭に西南戦争を起こしました。しかし、西郷軍は緒戦の熊本城の戦いに敗れ、その後の戦いでも連敗。ついに鹿児島へと戻り、決死の最終戦に臨みます。

薩摩藩、鹿児島城、鶴丸城
薩摩藩の居城・鹿児島城(鶴丸城)は、災害や虫害により建物が度々倒壊・焼失しており、現存する建物は存在しない

鶴が翼を広げた姿にたとえられた島津家の居城

江戸時代を通じて薩摩藩(さつまはん)(鹿児島県)の藩主を務めた島津家は、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)に九州の統治を任されて以降、ずっと同じ地で続いている名家です。戦国時代には薩摩を中心に九州のほとんどを手に入れました。しかし天下統一を目指す豊臣秀吉の九州攻めに敗れ、薩摩とその周辺のみの統治を認められます。関ヶ原の戦いでは勝者の徳川家康に敵対したため家が取り潰される可能性もありましたが、懸命に恭順の意志を示すことで薩摩の大名として存続を許されました。

こうして家康が初代将軍となった江戸幕府の時代、18代当主・島津家久(しまづいえひさ)によって築かれた新たな島津家の居城が鹿児島城(鹿児島県)です。築城にあたって家久は、関ヶ原の経緯もあることから家康や幕府に目をつけられないよう細心の注意を払い、天守も重層構造の櫓もつくりませんでした。その代わりに中世的な平屋の館造りを採用し、優雅な御殿建築に仕上げます。その姿は規則正しく区分けされた城下町と相まって鶴が翼を広げたように見えることから、鶴丸城とも呼ばれました。

合戦がほぼなくなってからつくられた鹿児島城は、行き来がしやすい平地に建つ平城です。そのうえ平屋の建物しかないので守りが弱そうですが、実は周辺に「外城(とじょう)」と呼ばれる防衛線の城が複数あり、簡単には攻められませんでした。しかも城の北側には城山という山があり、そこに後詰の城も持っていたのです。

城山にはもともと薩摩の豪族・上山家の上山城(うえやまじょう)がありましたが、上山家が島津家に追い出されてからは無人で放置されたといわれます。それが鹿児島城の完成にともなって整備されました。この城山こそが、幕末最後にして現在の日本で最後の内戦である西南戦争の決戦地となったのです。

西南戦争は、民主主義国家成立のため身分制度を廃止した明治新政府と政府に地位を奪われて不満をためた武士たちの戦いです。この武士たちの旗頭になったのが、政府と意見を違えて帰郷していた西郷隆盛でした。城山が西南戦争の決戦地になったわけは、西郷隆盛が武士たちの暴動を抑えるためにつくった陸軍士官学校・私学校が鹿児島城内にあったからなのです。

上山城、城山、桜島
城山から見た鹿児島城下と桜島

西郷隆盛が率いる私学校軍、解散

西郷隆盛が率いる私学校軍は、東京に置かれた新政府を問いただすために進軍をはじめました。その緒戦が熊本城の戦いです。私学校軍は新政府軍が籠城する熊本城を近代兵器で攻撃しましたが、堅牢な熊本城はびくともしません。そこで城を包囲し、長期戦に変更します。

この包囲戦の間、両軍ともただ熊本城でにらみあっていたわけではありません。新政府軍は援軍を送り、私学校軍はその進軍を阻止するために軍を分けて出撃しました。こうして熊本城周辺では多くの野戦が行われたのです。

中でも熊本城の北12kmほどにある田原坂では、両軍ともに7000人近い戦死者が出る激戦が繰り広げられました。武士が中心の私学校軍は刀を振るって戦ったため、新政府軍も現在の警視庁にあたる東京警視本署が送りだした警視隊のうち、刀の扱いが得意なメンバーを集めた抜刀隊で対抗しました。抜刀隊にはかつて新選組随一の剣豪と恐れられた斎藤一も所属しており、すさまじい切り合いになったことがたやすく想像できます。

西郷隆盛、私学校跡、陸軍士官養成
西郷が設立した私学校跡。下級士族を対象に、陸軍士官養成を行っていた

田原坂の戦いは約1か月も続き、最終的に新政府軍が熊本城への突破口を開きました。この勝利もあって熊本城は援軍との合流を果たし、私学校軍は撤退を決めたのです。こうして私学校軍は熊本城の東に位置する木山に本陣を置き直して再び新政府軍と戦いましたが、この城東会戦にもわずか1日で敗れてさらに東の延岡(宮崎県)まで押しこまれてしまいました。

そこで士気を上げるために西郷隆盛が陣頭に立ち、和田越での戦いが行われます。しかしこのときには私学校軍約3500に対し、陸軍中将・山県有朋(やまがたありとも)が率いる新政府軍は約5万。圧倒的な戦力差は埋められず、奮戦むなしく敗走した西郷隆盛はついに私学校軍の解散を宣言します。そして自分自身は、解散を告げてもつき従う約1000の精鋭を連れて鹿児島県へと戻りました。

山県有朋、政府軍、陸軍の父、内閣総理大臣
政府軍を指揮していた山県有朋。軍制の確立に貢献したため、「陸軍の父」と呼ばれた。後に第三代・九代内閣総理大臣となる

西郷隆盛の死と近代日本の真の夜明け

このころの鹿児島県は西郷隆盛を警戒した新政府軍に占拠されていましたが、隆盛軍は奇襲をしかけて私学校を取り戻し、城山に布陣して徹底抗戦の構えを見せました。西郷隆盛が籠城のため山の北側に掘った洞窟は、現在も西郷隆盛洞窟として伝わっています。

西郷隆盛洞窟、城山、
西郷隆盛洞窟。政府軍によって城山が包囲されると、西郷はこの洞窟に籠もり最後の戦いまでここで指揮を執った

しかし隆盛軍はもはや弾薬もほぼ底をつき、まともに戦える状態ではありませんでした。ここにいたって西郷隆盛は「城山決死の檄(げき)」を精鋭たちに告げ、いよいよ死を覚悟した決戦が近づきます。一方の新政府軍も総攻撃の準備を進めていましたが、明らかに戦力が劣る相手を攻撃するのは忍びないと思った山県有朋は、西郷隆盛に自決を勧める手紙を送りました。これを受け取った西郷隆盛は「返事をする必要はない」と捨て置いたため、翌日早朝から新政府軍の総攻撃がはじまります。

城山はまたたく間に新政府軍に包囲され、一斉射撃が行われます。そして、出撃した西郷隆盛の脇腹と太腿に弾丸が命中しました。「もう、ここまででいいだろう」――西郷隆盛は配下の別府晋介に介錯を頼むと、切腹して果てたのです。

私学校跡、石垣、西南戦争、銃弾
私学校跡の石垣には、現在も西南戦争の銃弾が残っている

最後の戦いに臨んだ西郷隆盛はどんな心境だったのでしょうか。和田越の戦いで陣頭に立ったことから考えると、そのときすでに死んだ命と思っていたのかもしれません。しかし対峙した山県有朋は、西郷隆盛に生きてほしいと願っていたでしょう。実は山県有朋は新政府内で西郷隆盛に高く評価されており、汚職事件への関与を疑われたときにもかばってもらったことがあるため、深い恩義を感じていたのです。そんな恩人に自決を勧め、最終的に攻め滅ぼしてしまったのですから、その苦悩ははかりしれません。

また西郷隆盛が新政府を離れるきっかけとなった征韓論争で西郷隆盛と対立した大久保利通は、もともと西郷隆盛の幼なじみで親友です。政治的には同意できませんでしたが、個人的に敬愛する西郷隆盛が自決したと聞くと、号泣しながら「隆盛の死とともに新しくて強い日本が生まれる」という内容をつぶやいたといわれます。この言葉のとおり、西南戦争の終結で真に武士の時代が終わり、近代日本がはじまったのでした。

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執筆・写真/かみゆ
ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。かみゆ歴史編集部として著書・制作物多数。

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