戦国武将と城|小和田哲男 <織田信長と城>第2回 信長時代の清須城を探る

日本城郭協会理事長  小和田哲男先生による「戦国武将と城」をテーマとした講座。織田信長編の第2回は、清須城について。信長時代の清須城がどのような城だったのか、実はほとんどわかっていない。その理由とは?

清須城の表記については、清須城と清洲城の二通りがある。時代的には清須の方が古く、清洲の方が新しいので、私自身は、信長在城時までは清須、信雄以降を清洲と書き分けているが、確証があるわけではない。ちなみに、現在、JRの駅名は清洲駅、市名は清須市となっている。

清須城と清州城は別物

その信長在城時の清須城がどのような城だったのかであるが、ほとんどわかっていないのが実情である。それは、天正14年(1586)に信長の2男信雄が大改修をし、信長時代の清須城とは全く異なる清洲城を築いたからであった。改修というより、新規築城といった方が正しいのかもしれない。

織田信長像、清須城、
清須城址 織田信長像

信雄、羽柴秀次、福島正則、さらに徳川家康の9男義直が居城とした清洲城については、名古屋市蓬左文庫所蔵の「春日井郡清須村古城絵図」などによってある程度の縄張が判明する。ふつうに考えれば、その織豊期から近世初頭の縄張によって信長時代の清須城の姿を浮かびあがらせることが可能なはずである。ところが実際はそう単純ではなかった。

というのは、信長までの清須城と、信雄以後の清洲城は、城の位置からして違っていたからである。

天正10年(1582)6月25日の清洲会議後、信雄は尾張・伊勢・伊賀3ヵ国を領有することになり、居城を伊勢長島としていた。ところが、同13年(1585)11月29日に発生した天正地震によって長島城が使えなくなり、新たな居城として選んだのが信長時代の清須城の場所だった。

しかし、清須城の場所も地震被害を受けており、そのまま使うことは不可能だった。そこで信雄は、五条川の流路を変え、全く新しい城を近くに築かせているのである。それが新しい清洲城ということになる。

清須城、天守、復元
現在の復元された清洲城天守

五条川の流路変更によって、信長時代の清須城の主要部は新しい五条川の流路となり、城域も川によって分断され、しかも、全く新しい縄張がなされた結果、信長時代の清須城は姿を消してしまったのである。さらに、その後、城域を東海道本線・東海道新幹線が通り、余計わからなくなってしまった。

信長時代の清須城には石垣はなかった

では、信長時代の清須城を探ることは全く不可能なのだろうか。この点で注目されるのが考古学の成果である。たとえば、鈴木正貴氏は「信長と尾張の城下町-小牧城下町成立前夜の尾張の都市-」(仁木宏・松尾信裕編『信長の城下町』)で2町(約200m)四方の二重の堀に囲まれた居館の存在を指摘している。周知のように、信長が守護代織田信友を討って清須城に移った弘治元年(1555)4月20日以前は、清須城は尾張守護斯波氏の守護所でもあったわけで、ふつうの守護館の大きさが方2町だったこととあわせ、その程度の建造物はあったものと思われる。

なお、信長時代の清須城に石垣が積まれていたかどうかが話題になることがある。発掘調査の結果では、信長時代の地層からは石垣が発見されていないので、まだ石垣を積むという発想はなかったものと思われる。

清須城、織田信雄、石垣、発掘
発掘された織田信雄時代の石垣

このことに関係して、この場を借りて弁明しておきたいことがある。1996年のNHK大河ドラマ『秀吉』で、清須城の「百間石垣」が崩れ、それを秀吉の割普請のアイデアで短時日に修復したというシーンである。その年の時代考証をしていた私は、「そのころまだ石垣はないので、土塁か土塀が崩れたことにして下さい」と要請したが、演出の人たちから、「土塁や土塀では迫力がない」といわれ、石垣で放送したといういきさつがあった。

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小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。

著書『戦国武将の手紙を読む 浮びあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
  『井伊直虎 戦国井伊一族と東国動乱史』(洋泉社、2016)ほか多数

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