2018/08/13
城:縄張から普請まで|加藤理文 織田信長の城・安土城 第9回 | 検出された二の丸東溜りの構造 1
日本城郭協会理事 加藤理文先生による「城:縄張から普請まで」をテーマにした講座、安土城編。安土城の伝二ノ丸と天主台に囲まれた空間は、「二の丸東溜り」と呼ばれています。今回は、「二の丸東溜り」で2000年に実施された発掘調査において検出された遺構と、その解釈について。
「城:縄張から普請まで|加藤理文」
安土城の伝二ノ丸と天主台に囲まれた南北約12m×東西約17mの空間が「二の丸東溜り」と呼ばれており、南は三の門(門2)から本丸への通路に面している。背後に位置する伝二の丸との高低差は約8m、東に位置する天主台との高低差は現状で約11mとなっている。平成12年(2000)、この場所の天主台西側沿いに、南北約13.5m、東西は北端で約2m、南端で4mのトレンチが設定され発掘調査が実施された。発掘調査で検出された遺構と、その解釈について『特別史跡安土城跡発掘調査報告10‐主郭西面・搦手道湖辺部の調査‐』(滋賀県教育委員会 平成12年)でどのように結論付けられているかを解りやすくまとめておきたい。なお、礎石番号は説明しやすいように報告書と変更している。
この発掘調査によって、建物の柱を支える礎石20個・もともとあった礎石を抜き取った時に出来た穴2個所と礎石の上に残る炭化柱材・建ったままの状態の壁材、さらに建築当初の位置をほぼ残すあるいは形状を保持している炭化建材が検出された。礎石1個の大きさは、70~80㎝×60~70㎝程の大形のものと、20㎝×40㎝程の長方形を呈す小型のものとに大別できる。大型礎石は、天主台西側石垣沿いとその西側の2列・14個と南端で3個であった。西側礎石(A列)は、天主台石垣に接した位置にあり、ほぼ1m間隔で10個(礎石1~10)が連続している。この礎石列の西側2.4mで、この礎石列に並行する間隔約2.1mの4個(礎石11~14)の礎石(B列)も検出された。AB列共に、主軸方位はN(北)9°W(西)であるため、一連の建物を構成する礎石として問題は認められない。なお、礎石13と14の間の礎石19は、未発掘部分なので推定である。さらに、最南端で2箇所の礎石を抜き取った痕跡(20・21)が確認されている。

発掘調査場所と本丸主要部平面図
礎石上に残存していた柱材の大きさを確認しておきたい。それぞれ21×16㎝、21×21㎝、24×16㎝、27×21㎝、30×21㎝とばらつきが見られる。南二間分で検出した根太材(床板を支持するため床板に直角に配した水平材。)は、小口(木材などの材料の切断面のこと)一辺が9~12㎝であった。壁材は、礎石14上の炭化柱材の前後、南北方向で建ったままの状態を確認(土台材から高さ約20㎝程度が残存)、壁の厚さは約30㎝であった。北端の壁材は西側に倒れた形で検出されている。なお、壁材は仕上げに白漆喰は未使用と想定されている。この遺構を覆う形で多量の瓦が出土しているが、屋根に葺かれた状態を認めることは出来ず、東上に位置する天主からの落下と考え、ここにあった瓦葺建物である可能性は低いと結論付けている。
これらの状況から、南北方向一間を約2.1m(六尺八寸)、東西方向一間を約2.4m(七尺)とし、南北5間×東西1間以上最大7間までの建物を推定している。2列の礎石列のほぼ中間に約1.4m間隔で並ぶ小型礎石3個(礎石15~17)は束柱が想定されている。床の叩き面の存在や根太材と考えられる炭化角材の存在等から、南側二間分が床張り構造と判断。南端で検出された三個の礎石(礎石18、22、23)は、南側櫓台直下に礎石の存在を想定し、北側二箇所の礎石抜き取り痕と併せ門跡(門3)が推定されている。南端二個の大型礎石(礎石22、23)の軸が若干異なるためでもある。

二の丸東溜り遺構平面図・断面図(『特別史跡安土城跡発掘調査報告 10 -主郭西面・搦手道湖辺部の調査-』2000 年、滋賀県教育委員会 より転載。加筆・修正:加藤理文)
出土遺物は、天主から崩落した瓦類・金具類等が主体である。特徴的な遺物として、完形の黄瀬戸(岐阜県土岐市とその周辺を中心として焼かれた室町時代末期~桃山時代の古陶で,美濃焼の一種。 鉄釉によるあたたかい黄色でおおわれているのが特徴。)1点と集中して出土した鉄製土工具類が挙げられる。黄瀬戸は、出土状況から礎石2の壁際に棚等の収納空間があり、そこに保管されていたと推定されている。鉄製土工具類は、十能(炭や灰を運ぶための家庭道具あるいは農具で、小型のスコップのような形状である)6点、鍬先(長い柄の先に取り付けられた土を掘り起こす歯の部分)4点が北端の二の丸石垣沿いで出土している。本来は、木製の柄付きで、建物の壁に掛けられたか立てかけられていた物が、瓦の崩落によって落下し、木製の柄部分のみ焼失したと考えている。共に、建物内部に収納・保管されていたことを推定しているが、嗜好的で貴重な黄瀬戸の「一品」ものと土工具類とが同一空間に置かれていたことについては検討の余地があるとしている。以上が、二の丸東溜りの発掘結果と調査担当者の見解である。

主郭西面・二の丸東溜り出土「黄瀬戸」※(『特別史跡安土城跡発掘調査報告 10 -主郭西面・搦手道湖辺部の調査-』2000 年、滋賀県教育委員会 より転載)
この発掘成果を基に、礎石の配置から推定される一連性を再度検討しておきたい。A列をなす礎石1~10までは、ほぼ同一間隔(約1m)で軸をそろえていることから一連の施設の遺構と考えて問題はあるまい。次に、B列をなす礎石11~14(19は未掘のため推定)も同一間隔(約2.1m)で軸をそろえているため、これも一連の施設の遺構になろう。また、A列とB列は、2.4mの間隔で平行関係にあることから、A列とB列は対応する一連の礎石列群とするのが妥当であろう。ただ、A列とB列の礎石すべてが対応関係になっていない。それは、A列側礎石10に対応する礎石が確認されていないことである。だが、その南側で、A列・B列と軸をそろえ、同一間隔になる礎石を抜き取った痕跡20と21が確認されている。これによって、この礎石列は北端が礎石1と11、南端が20と21ということで、全て対応関係が認められることになる。当然、A・B列のほぼ中間点南側で検出された礎石15~17についても、間隔と主軸が同一であるため、一連の施設を構成する礎石として捉えられよう。この施設は、南北5間×東西1間の規模と判明する。
問題は、礎石20の南側に位置する18と最南端で検出された対の可能性が高い22と23の3個の礎石の扱いである。礎石18は、A列と完全に軸を併せ礎石間の距離も同一である。従って、A列礎石抜き取り痕20に連続する礎石と判断される。だが、西側に対応する礎石は認められない。南側には礎石23が検出されているが、軸線が若干ずれてしまう。22と23の対応関係は確実で、その軸は天主台南面石垣を基準としているようだ。この3礎石が、南北5間×東西1間の北側建物と接続していないと礎石18が完全に機能を果たしていないことになる。従って、形はどうであれ、北側建物に付設する遺構と判断される。南北5間×東西1間とする遺構から見る限り、通常の建物の想定は難しい。倉庫や小屋とするならA・B列の礎石は同一で間隔で左右対称ということになろう。ところがA列側は、半間ごとに礎石を置く、極めて厳重な造りなのである。ここに存在する建物は、通常以上の重量物を支えることを必要とする建物か、あるいは特異な形状を呈す建物としか思えない。
※「黄瀬戸」:国内に同様な品物は確認されておらず、所謂特注品として焼かれた「一点物」である。用途は不明だが、花器の可能性が指摘されている。
▶「城:縄張りから普請まで」その他の講座はこちら
公益財団法人日本城郭協会 理事、学術委員会副委員長
NPO法人城郭遺産による街づくり協議会監事
1958年 静岡県浜松市生まれ
1981年 駒澤大学文学部歴史学科卒業
2011年 広島大学にて学位(博士(文学))取得
(財)静岡県埋蔵文化財調査研究所、静岡県教育委員会文化課を経て、現在袋井市立浅羽中学校教諭
著書 『織豊権力と城郭-瓦と石垣の考古学-』高志書院 2012年
『江戸城を極める』サンライズ出版 2014年
『織田信長の城』講談社現代新書 2016年
『静岡県の歩ける城70選』静岡新聞社 2016年
『日本から城が消える』洋泉社歴史新書 2016年 等多数









