戦国武将と城|小和田哲男 <織田信長と城>第1回 信長生誕地は那古野城か勝幡城か

日本城郭協会理事長  小和田哲男先生による「戦国武将と城」をテーマとした講座。今回から織田信長編がはじまります!信長の生誕地は、那古野城か、勝幡城か。信長がどこで生まれたのかについて、説が分かれている理由とは?

勝幡駅前の織田信秀・土田御前・信長像
勝幡駅前の織田信秀・土田御前・信長像

今回から、織田信長と城とのかかわりについてみていきたい。

信長の誕生が天文3年(1534)であることは各種史料が一致していて問題はない。ところが、どこで生まれたのかについては説が分かれているのである。といっても、通説というか、定説となっているのは那古野(なごや)城説で、もう一つの勝幡(しょばた)説というのは、どちらかといえば、最近になって浮上してきた説といってよい。

通説は那古野城誕生説だが

たとえば、権威ある『国史大辞典』の織田信長の項(今井林太郎氏執筆)には、「幼名を吉法師といい、天文3年(1534)尾張那古野城に生まれる」としており、また、阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典』も「尾張那古野で誕生」と記されている。那古野城は近世名古屋城の二の丸にあたるところで、信長の父信秀が居城としていた場所であり、そのように理解されていたのである。

というのは、長いこと、信秀による那古野城奪取を天文元年(1532)としていたからである。そのころの那古野城の城主は尾張今川氏の今川氏豊で、当時、勝幡城の城主だった信秀が謀略によって那古野城を奪取したのを『名古屋合戦記』および『明良(めいりょう)(こう)(はん)』によって同年の2月ないし3月としてきたからであった。

勝幡城址
勝幡城址

それら史料によると、氏豊が連歌好きで、その相手をしていたのが勝幡城主の信秀だったが、氏豊から、「連歌会の度に那古野城に通ってくるのも面倒だろうから、城内に別棟を建ててあげよう」といわれ、度々宿泊して油断させ、天文元年に城を乗っ取ってしまったというのである。

信秀の那古野城奪取は天文7年か

ところが、天文元年だと、氏豊はまだ12歳で、いかに早熟だったとはいっても、連歌にのめりこむような年齢ではなく、この年次には疑問符がつけられていた。私の知る限り、この矛盾に着目し、信秀による那古野奪取をもう少しあとにもってきたのが新井喜久夫氏である。奥野高廣・岡本良一・松田毅一・小和田哲男編『織田信長事典』(1989年)の「出自」で、「当時、那古野城の近くに天王社と若宮八幡社があり、ともにこの時の兵火によって焼亡し、天文八年に再建されたという伝えをもっている。この再建年次から考え、那古野城の奪取は天文8年以前、7年頃と考えるのが妥当ではあるまいか」と述べ、信長は勝幡城で生まれたとした。

そのあと、石田泰弘氏が「織田信長出生考」(『郷土文化』164号、1992年)で勝幡城誕生説を展開し、横山住雄氏も『織田信長の系譜』(1993年)で「信長誕生地は勝幡」とし、これが定説となりつつある。私も、信秀による那古野城奪取が天文7年だとすれば、同3年生まれの信長が那古野城で生まれるはずはなく、必然的に勝幡城で生まれたとみるのが自然ではないかと考えている。ただ、那古野城誕生説は広く知られていることがらなので、勝幡城誕生説が通説になるには時間がかかると思われる。

ちなみに、信秀はそのあと那古野城から古渡城に移っているが、そのとき、幼い信長を那古野城に残している。つまり、信長は元服前にすでに那古野城の城主となっていたのである。

勝幡城址碑
勝幡城址碑

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小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。

著書『戦国武将の手紙を読む 浮びあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
  『井伊直虎 戦国井伊一族と東国動乱史』(洋泉社、2016)ほか多数

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