城:縄張から普請まで|加藤理文 織田信長の城・安土城 第8回 | 天主の平面規模

日本城郭協会理事  加藤理文先生による「城:縄張から普請まで」をテーマにした講座、安土城編。今回は、安土城の天主(天守)の規模について議論される際、最大の問題となる「度量衡」について。『信長公記』記載の長さ1間は、いったい何cmを基準としているのでしょうか?

「城:縄張から普請まで|加藤理文」

安土城天主台は、穴蔵部分の上部が崩落しているものの、内部土蔵部分は礎石を含めほぼ旧状を留めている。発掘調査も実施され、現状はほぼ正確に把握されている。

記録としては、『信長公記』巻九 安土山御天主の次第に、天主の規模が記載されている。この『信長公記』記載の規模と現状の天主台規模の相違に対し、様々な議論が見られる。だが、最大の問題となる「度量衡」についての検討が不十分と言わざるを得ない。『信長公記』記載の1間を、現状の安土城の穴蔵礎石間の7尺(212.1㎝)1間と考えていいのだろうか。『信長公記』は設計記録ではなく、あくまでも慶長元年(1595)以降に編纂されたと信長の一代記なのである。

安土城、天守台、穴蔵内部、礎石
天守台穴蔵内部の礎石

それでは、『信長公記』記載の1間は、いったい何cmを基準としているのだろうか。長さの基本である1尺は、古代からの曲尺があるため、1尺=30.3㎝と考えて問題はない。『信長公記』にある天主の柱の太さは「1尺5寸~6寸角、あるいは1尺3寸角の木材」とあるため、45~48㎝前後と、40㎝前後だったことになる。発掘調査によって確認された天守台穴蔵の礎石に残る柱を置いた痕跡は、概ね一辺30㎝~40㎝で、中に45㎝×60㎝の痕跡を残すものも確認されている。現状と記録を比較し、尺については、曲尺一尺であったとして問題はないと考える。

次に1間だが、これが時代によって異なるのである。そのため、前述のような記録と現状と違うという見解が示されることになる。

通常の場合1間は、鎌倉~室町中期では7尺(212.1㎝)程度、室町後期以後は6尺5寸(196.95㎝)で、これがいわゆる「京間1間」になる。信長は、差出検地で土地の広さを測らせたが、1辺は一間とし、6尺5寸であった。文禄3年(1594)の「太閤検地」では、長さの基準として1間=6尺3寸(190.89㎝)が示されている。安土城の場合、穴蔵の礎石間隔は柱と柱の真ん中で7尺を測るが、穴蔵の平面形が歪んでいるため、柱間の狭い部分が東西両石垣裾部に存在する。

『信長公記』では、「石くらの高さ十二間余りなり。石くらの内を一重土蔵に御用い、是れより七重なり。二重石くらの上、広さ北南へ廿間、西東へ十七間、高さ十六間。ま中に有る柱数二百四本立つ。本柱長さ八間、ふとさ一尺五寸、六寸四方一尺三寸、四方木」とある。これは、柱と柱の間(柱間)が20間ということではなく、単純に南北幅が20間ということと理解される。なぜなら、高さも間数で示されているからである。

発掘調査で検出された現状の天守台の数値を『信長公記』と同じ表記をすると「石くらの高さは現状で12m程が残存している。石くらの中を土蔵として使い、ここから七階建てとなる。石くらの上の一階の広さは南北へ38m、東西へ34m、高さが不明(建物が失われているため)」となる。

安土城、天守台南西面、南面石垣
天守台南西面と南面石垣

この記載にある1間を、安土城の穴蔵礎石間の7尺(212.1㎝)と考え、南北42.4m・東西36mで、南北に4.4m・東西に2m程足りないとの見解が示されたりしているが、高さ12間だと25.5mになり、現状と比較し、実に13.5mも低いことになる。これに対し、明瞭な解答は見られず、東西南北だけが問題視されているだけである。石蔵の高さ12間も含め、解決がつかない限り、1間を何尺として太田牛一が記載したかは判明しないことになろう。

太田牛一は、信長の死後、織田家重臣であった丹羽長秀の右筆として仕え、長秀が没すると豊臣秀吉に仕えている。『信長公記』は、丹羽・豊臣家臣時代の記録をもとに慶長元年(1595)以降に編纂されたと考えられている。内容的には、信長の一代記の体裁はとるものの、信長賛美的な内容とはなっていない。後世に、信長の事績を中心に信長の時代を書き残した記録なのである。

従って、実際に安土城天主で使用された7尺(212.1㎝)1間を使用する必然性はないことになる。編纂時に一般的に用いられている度量衡を使用するのが普通の感覚ではないだろうか。今現在の長さを表す時に、私たちはメートルを用い、あえて尺や間を使用することはない。『信長公記』が書かれた当時の「1間」は、6尺5寸(196.95㎝)あるいは6尺3寸(190.89㎝)であった。従って、当時一般的に使われていた単位を用いるのが普通の感覚なのである。

そう考えて、現状と比較すれば6尺5寸の場合南北39m×東西33.5mに、6尺3寸だと38m×32.5mとなり、東西南北共に1m程度と誤差の範囲におさまる数字となる。ただ問題は、前述した石蔵の高さ12間という数値で、前者が23.6m、後者が22.9mとなる。どの単位を使用しようと石蔵の高さは、伝本丸からは約12m、伝二の丸からは約8mと、およそかけ離れた数値になってしまう。石蔵が22~23mの高さになるには、伝本丸下の帯郭、あるいは主郭外周路から測らなければならず、明確な解答を得ることは出来ない。

唯一、主郭外周路からの高さを天主台の高さと家臣達が認識していたケースが存在する。それは主郭外周路から中が「閉じた空間」となっていた場合である。ここから中は、信長の許可が無ければ、何人も入れない空間であったなら、ここからの高さを天主台の高さとしたとして認識していたとしても不思議なことではない。

仮に、太田牛一が自分で直接測ったり確実な数字を入手したりしたのではなく、伝聞情報を誤って記載していたということになれば、規模そのものについても現状の測量から考えるしかないということであろう。このように、当時の度量衡の表記についてははっきりしない部分が多いと言わざるを得ない。こうした、未確定部分の多さが、様々な復元案を生んでいる要因でもあり、解決できない課題なのである。

安土城、天守台の規模
上:立面図、下:平面図

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加藤理文(かとうまさふみ)
公益財団法人日本城郭協会 理事、学術委員会副委員長
NPO法人城郭遺産による街づくり協議会監事
1958年 静岡県浜松市生まれ
1981年 駒澤大学文学部歴史学科卒業
2011年 広島大学にて学位(博士(文学))取得
(財)静岡県埋蔵文化財調査研究所、静岡県教育委員会文化課を経て、現在袋井市立浅羽中学校教諭

著書 『織豊権力と城郭-瓦と石垣の考古学-』高志書院 2012年
   『江戸城を極める』サンライズ出版 2014年
   『織田信長の城』講談社現代新書 2016年
   『静岡県の歩ける城70選』静岡新聞社 2016年
   『日本から城が消える』洋泉社歴史新書 2016年 等多数