超入門! お城セミナー 第25回【武将】武田信玄が戦国随一の築城名人だったって本当?

初心者向けにお城の歴史・構造・鑑賞方法を、ゼロからわかりやすく解説する「超入門! お城セミナー」。今回の主役は、織田信長の最大のライバルと目されることも多い武田信玄。ただし、信長は安土城を築き近世城郭を世に広めたのに対し、信玄の城はパッとイメージできない読者も多いのでは? 信玄はどんな城を築き、城をどう活用したのかを解説します。



武田信玄、躑躅ヶ崎館、武田神社、境内
武田信玄の本拠であった躑躅ヶ崎館は、現在は武田神社の境内となっている

河岸段丘や丸馬出しが信玄の城の特徴

「人は城、人は石垣、人は堀/情けは味方、仇は敵なり」。これは武田信玄の逸話や武田家に伝わる軍学を記した『甲陽軍鑑』の一節。「人は城…」というフレーズから、信玄は城を築かなかった戦国大名という印象を持つ読者も多いのではないでしょうか。信玄の居城であった躑躅ヶ崎館跡(山梨県)が現在は武田神社になっており、城らしさが乏しいのも、信玄と城の結びつきを弱めているように思います。

しかし、信玄は当時としては最も発達した城郭を築いていました。ではなんで城のイメージが薄いかというと、信玄が築いた城は山城や土の城(中世城郭)だからでしょう。織田信長は天下統一を目指す過程で、天守がそびえる石垣の城、いわゆる近世城郭を創出しますが、信玄の時代はまだ石垣をもたない中世城郭が主流でした(信長が最初の近世城郭とされる安土城(滋賀県)を築いた頃には、信玄はすでに他界していました)。先ほど「最も発達した城郭を築いた」と書いたのは、「“中世城郭として”最も発達した」ということです。

信玄の城は居城の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)(現武田神社)ではなく、国境の最前線や侵攻先に築いた城でこそその真価が発揮されました。特徴としてはまず、地形を巧みに利用している点が挙げられます。山城が地形を利用するのは当たり前のことですが、信玄が多用したのは「河岸段丘(かがんだんきゅう)」。何百・何千年という時間を経て河川が削り取った階段状の地形のことで、崖に接して城を築けばそちらから攻めることはほぼ不可能であり、高い防御力を発揮します。また、河川の水運と河川沿いの交通網を管理・警備しやすいというメリットもあります。

上田城、千曲川、真田昌幸
徳川家を2度にわたり撃退した上田城(長野県上田市)は、千曲川の河岸段丘を利用して築かれている。築城者の真田昌幸は信玄の薫陶を受けており、築城術も学んだと考えられる(イラスト=香川元太郎)

信玄の城の特徴として、もうひとつよく挙げられるのが「丸馬出し」です。城の攻防では敵が押し寄せることになる「虎口」。この虎口の前面に設けられた小さな曲輪のことを馬出しといいますが、信玄は「三日月堀」と呼ばれる半円の堀をともなった丸馬出しを多用しました。さらに方形の空間を持つ「枡形虎口」も採用しており、枡形と丸馬出しを連続させることで鉄壁の虎口としていたのです。丸馬出しと枡形虎口の組み合わせは、信玄の息子・勝頼が築いた新府城(山梨県)などで見ることができます。

丸馬出し、虎口、三日月堀
丸馬出しの構造。虎口の前面に築かれており、敵兵が虎口に突撃するのを防ぎ、守備兵の反撃拠点にもなる(イラスト=香川元太郎)

丸馬出しは「武田流築城術」なのか?

それでは、具体的に信玄の城を見てみましょう。

長野県長野市信州新町に残る牧之島城は、信玄が長野北部に侵攻したときに攻略し、重臣の馬場信春の手によって最前線の城へと生まれ変わりました。『甲陽軍鑑』によると、馬場信春は信玄の軍師だった山本勘助から築城を教わったとされますが、山本勘助が築城名人だったという逸話はかなり眉唾ものです。ただ、馬場信春が牧之島城をはじめ、諏訪原城や田中城(いずれも静岡県)など堅城とされる土の城を多く手がけたことは間違いないようです。

牧之島城、犀川
牧之島城は、犀川に面した台地上に築かれている

牧之島城、丸馬出し、土塁、三日月掘
牧之島城の丸馬出し。写真左側の土塁が三日月堀に沿って半円を描いている

牧之島城は犀川が蛇行する地点に築かれており、北・西・南の三方を川に囲まれています。唯一、台地に開かれている東側の虎口には土塁で囲まれた枡形が設けられ、その前面を丸馬出しが守ります。信玄流の典型といえるでしょう。さらに、川が蛇行する西側にも二重の横堀で守りを固めています。長大な横堀を築いて城内と城外を遮断する点も、信玄が得意とした築城術となります。

同じく長野県に築かれた大島城(下伊那郡松川町)は、長野県南部を支配する拠点であり、遠江(静岡県)に侵攻する際には兵站(食糧・軍需などの後方支援)を担った城でした。天竜川の河岸段丘の突端を利用して築かれており、背面は断崖絶壁。一方で、城の正面は丸馬出しと枡形を組み合わせて防御を固めています。それとともに、城の周囲をぐるりとめぐる、深さ10m近い大規模な横堀も見どころです。

大島城、丸馬出し、三日月堀、土塁
大島城の丸馬出し前面の三日月堀。敵兵の突撃を防ぐために、堀底に土塁が築かれている

このように、信玄は領国支配と他国侵攻のために、防御性に優れた山城(中世城郭)を多く築きました。ただ、最後に注意点をひとつ。信玄が持つ高度な築城技術は、しばしば「武田流築城術」「甲州流築城術」と呼ばれていますが、こうした用語は江戸時代に兵学が机上の空論として発展する過程で生まれたものであり、「武田流築城術」という言葉や、築城技術を伝える秘伝書のようなものが戦国時代にあったわけではありません。

それに加えて、近年の研究によって、信玄の城とされているもののいくつかは、武田氏滅亡後に徳川家康が大改修を加えていることがわかりはじめています。例えば、武田氏と徳川氏が激しく奪いあった諏訪原城の一番の見どころである丸馬出しは、武田時代ではなく、その後の徳川時代の築造であることが発掘調査により判明しました。当時最高峰であった信玄の築城技術は、家康が受け継ぎ、さらなる進化を遂げたのです。信玄が関わった城だからといって「武田流築城術」ともてはやすことなく、この丸馬出しは信玄が築いたのか家康が築いたのか、思い馳せながら見るようにしましょう。


執筆・写真/かみゆ
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。

関連書籍・商品など