戦国武将と城 <豊臣秀吉と城>第4回 石垣山城を秀吉が短期間で築いたわけ

日本城郭協会理事長  小和田哲男先生による「戦国武将と城」をテーマとした講座。豊臣秀吉が関東ではじめての総石垣の城・石垣山城を、短期間で築くことができた理由とは?


関東ではじめての総石垣の城

秀吉は天正18年(1590)3月1日、自ら3万2000の直属軍を率いて京都聚楽第を出陣し、4月6日には箱根湯本の早雲寺に到着し、21万とも22万ともいわれる大軍で小田原城を包囲している。

しかし、小田原城は惣構(そうがまえ)といわれる総延長9キロにおよぶ大外郭に守られており、秀吉としても短時日で落とすのは困難とみて、城攻めのための陣城、すなわち対(たい)の城の築城にかからせている。これが石垣山城で、短期間にできたことから通称石垣山一夜城とよばれるが、もちろん、石垣山城というよび方は近世になってからである。

石垣山城
石垣山城

築城開始は4月9日頃からといわれている。築城の手順からいっても、はじめは普請、すなわち土木工事で、秀吉は近江の穴太衆(あのうしゅう)をよび、石垣工事にかからせている。それまで、関東の城は「土の城」で、総石垣の城はなく、臨時の陣城ではあるが、石垣山城は関東ではじめての総石垣の城となった。

それが可能だったのは、石垣山城が築かれた笠懸山(かさがけやま)周辺に恰好の石切丁場があったからである。早川石丁場といって、のち、徳川家康が江戸城を築いたとき、江戸城の石垣の石切丁場の一つともなっていたのである。まさに地産地消を地でいった形だった。

石垣山城、小田原城
石垣山城から小田原城

作事が急ピッチで進んだのはどうしてか

普請のつぎは作事である。石垣の石は近くから集められたとしても材木はそうはいかない。石垣山城は塀や櫓だけでなく、規模はわからないが天守まであげられていたというので、かなりの量の材木が必要となるが、それはどのように集められたのだろうか。

これについては興味深い伝承が静岡県富士市に残されていた。富士市教育委員会編集発行の『善得寺の研究―調査報告書―』によると、善得寺建立のために集めてあった材木を秀吉軍が持っていって、石垣山城の材木に使ったというのである。このことに関して、秀吉側の史料には一切記されていないので、真偽のほどはわからないが、武田軍によって焼かれてしまった善得寺を、今川義元の軍師として知られる太原崇孚(たいげんそうふ)、すなわち雪斎の弟子である東谷宗杲(とうごくそうこう)が奔走して再建のための材木を集めていたことは事実なので、その可能性はあるように思われる。

もしかしたら、善得寺だけでなく、似たような他の例もあったのかもしれない。完成は家康の家臣松平家忠の日記『家忠日記』によって6月26日だったことが明らかなので、わずか80日ほどで、普請・作事が終わったことになる。

石垣山城、水の手曲輪
石垣山城の水の手曲輪

なお、作事に関して、江戸時代に書かれた軍記物の『関八州古戦録』に、塀や櫓に杉原紙を貼って白壁にみせたため、北条側がびっくりしたといった記述があり、軍記物作者の作り話かと思っていたが、伊達政宗に関する史料「伊達政宗言行録―木村宇右衛門覚書」(一・ニ『仙台市立博物館調査研究報告』第七、八号)に秀吉が白壁に見えるよう紙を貼りつけたということが書かれているので、事実だったとみてよい。秀吉らしいパフォーマンスということになるのではないだろうか。

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小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。

著書『戦国武将の手紙を読む 浮びあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
  『井伊直虎 戦国井伊一族と東国動乱史』(洋泉社、2016)ほか多数

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