昭和お城ヒストリー 〜天守再建に懸けた情熱〜 第8回 【大阪城】豊臣と徳川が融合!?外国人観光客に人気のハイブリッド天守

昭和という時代にスポットを当て、天守再建の背景にある戦後復興や町おこしのドラマに迫る「昭和お城ヒストリー」。今回は大阪府にある大阪城をピックアップ。大阪城は、豊臣大坂城と徳川大坂城があって、現在の大阪城は、その二つが混じりあった意匠・・・って一体どういうこと!?

大阪城、内堀、天守、巨大な石垣
北西側の内堀から見た大阪城。巨大な石垣の上に天守が立つ

徐々に本来の姿を失っていった大坂城

大阪城の「さか」。現在は「阪」だが、歴史書や江戸時代以前を扱う場合は「坂」の字を当てることが多い。江戸時代には「大坂」と書くことが多かったが、「大阪」と書くこともあった。明治政府が大阪府を設置してからも「坂」と「阪」は併用されていたが、明治20年(1887)頃までには「大阪」に統一されたという。ちなみに戦国時代には「おおざか」と「さか」を濁音で発音していたようだ。本稿では江戸以前は「大坂」、明治以降は「大阪」として話を進める。

さて、大坂城は豊臣秀吉が築いた「太閤さんのお城」として有名である。だが、現在の大阪城(堀と石垣)は江戸幕府が築いたものなのである。それだけでも「えー!」となるのに、さらに、昭和6年(1931)に完成した現在の天守は、徳川時代と豊臣時代が混じりあった意匠なのだ。

なぜそんなことになってしまったのか? これからその謎に迫っていきたいと思う。

豊臣秀吉が築いた最初の天守は、漆黒の5層天守で、鯱瓦や飾り瓦、壁面に刻まれた金色の彫刻、金銀で飾りたてられた奥御殿など、天下人秀吉にふさわしい絢爛豪華な城だった。その姿は「大坂夏の陣図屏風」に描かれたものを偲ぶのみとなっているが、築城には約1年半を要し、秀吉が死ぬまでの15年間、拡張が続けられた巨大城郭だった。

その大坂城も、大坂夏の陣で豊臣家が徳川家康に敗北すると、徹底的に破壊されてしまう。その後、2代将軍徳川秀忠により再建工事が行われ、豊臣時代の大坂城はすべて埋められ、堀はより深く、石垣はより高く築き直された。再建工事は3期10年にわたって行われ、3代将軍家光の時に完成した。天守は白亜の5層6階で、豊臣時代より約18メートルも高かったと推測されている。

しかし、築城から39年後、天守は落雷によって焼失してしまい、昭和に天守が復興されるまでの266年間、大坂城に天守が再建されることはなかった。徳川時代には大坂城に天守はほとんどなかったといえる。さらに、幕末には鳥羽・伏見の戦いで櫓などの建物もその多くを焼失してしまう。

やがて武士の世が終わり、明治新政府が成立すると大阪城には陸軍が駐留。幕末の火災で焼け残った建物も次第に失われていくこととなる。

大阪城、大阪歴史博物館、絶景スポット
大阪歴史博物館からは大阪城の全域を望める。晴れていれば絶景スポットだ

当時最新の建築方法だった鉄筋コンクリートで天守が蘇る

大正14年(1925)、大阪市は東京市を抜いて日本最大の人口を抱える都市となった。関東大震災により一時的に首都機能を失った東京から、多くの企業や活動の場を失った芸能人や文化人が大阪に逃れてきたこと、都市化した郊外を大阪市に編入したことがあいまって大阪市の人口が急増したためだ。

これを記念して開催されたのが「大大阪記念博物館」である。このとき、天守台の上に「豊公館」という仮設の建物が建てられた。そこでは秀吉ゆかりの品々が展示公開され、45日間で約70万人が訪れるほどの大盛況となった。これがきっかけとなり、昭和3年(1930)、仮設ではなく恒久的な天守をつくることが議会で承認された。

しかし、議会の承認は得たものの、城の再建には土地の所有者である軍を説得し、城内に点在する陸軍施設を移動させなければならない。そのため、大阪城再建のための寄付で集まった150万円(現在の5〜600億円)の内、80万円を投じて第4師団司令部庁舎を新築することを軍に提案し了承を取り付けた。このとき新築された庁舎は、戦後、大阪市立博物館として長らく使われており、現在は城内にいながら食事や買い物を楽しめる複合施設「ミライザ大阪城」となっている。

大阪城、天守閣
平成の大改修によって輝きを取り戻した天守閣

こうして再建されることとなった大阪城は、豊臣秀吉が建てた天守の復興を目指した。しかし、「大坂夏の陣図屏風」に天守が描かれているものの、豊臣時代の大坂城の資料は少なく、調査は困難をきわめたようだ。

天守は当時としては最新の建築工法である鉄骨鉄筋コンクリート造とすることが決まった。総重量は約1万1000トン、徳川時代の天守台に負担がかからないように、吊り下げ工法が用いられた。地上55mの超高層建築は国内最初の例であり、多くの困難を伴った工事は昭和5年(1931)にはじまり、翌年の11月7日、3代目の大阪城天守閣が無事に完成。近代建築による復興天守閣の第1号であるとともに、天守閣内部を郷土歴史資料館として利用するまったく新しい試みがなされた。鉄筋コンクリートで天守を復元して、内部を歴史博物館として活用する——この方法は、戦後にブームとなり、大阪城は復興天守の成功モデルとなったのである。

ただこのときはまだ、豊臣時代の大坂城の上に徳川時代の大坂城が建てられていた事実に誰も気づいていなかった。その事実が判明したのは昭和30年代に入り、「大坂城総合学術調査」によって現在の本丸地下7mに、豊臣時代の石垣が埋もれていることがわかってからだ。現在では大阪市が豊臣時代の石垣を掘り起こして公開する「豊臣石垣公開プロジェクト」を推進している。

平成7年(1995)から平成9年(1997)にかけて、大阪市は総工費70億円を当時で投じて「平成の大改修」を行い、大阪城天守閣は復興当時の美しい姿に蘇った。また、同年、初期近代建築として登録有形文化財に指定された。復興天守としては初の文化財指定だった。

大阪城天守閣の2017年度の入館者数は過去最高を記録した。外国人観光客が増加していることや、各種イベントが好調だったためだ。とくに外国人観光客には、日本らしさを堪能できる城は人気の観光スポットであり、古風な外観に比べて内部はエレベーター付きのハイテクな城、というギャップも魅力となっているようだ。

豊臣秀吉の築いた初代天守が30年、徳川秀忠の築いた天守が39年で焼失したのに対し、現在の天守は歴代でもっとも長い87年間も大阪の町を見下ろしている。まさに、名実ともに大阪のシンボルとなっている。


大阪城(大阪府大阪市)
大阪城は石山本願寺の跡地に、天正13年(1585)、豊臣秀吉によって築かれた。その後、大坂の夏の陣で豊臣家が破れたことで城は取り壊される。徳川家によって寛永3年(1626)に再建されるも寛文5年(1665)に落雷で天守は焼失、本丸御殿も幕末の動乱で焼けてしまった。現在は一部の建物が当時の姿で残っているのみである。

執筆/かみゆ(丹羽篤志)
歴史関連の書籍や雑誌・デジタル媒体の編集・制作を行う。ジャンルは日本史全般、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなど。『別冊歴史REAL 「山城歩き」徹底ガイド(洋泉社)、『学研ムック 超ワイド&パノラマ 鳥瞰イラストでよみがえる歴史の舞台』(学研プラス)など。

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