2018/08/30
超入門! お城セミナー 第19回【構造】こんなに大きな石材をどうやって運んだのか?
初心者向けにお城の歴史・構造・鑑賞方法や、お城の用語など、ゼロからわかりやすく解説する「超入門!お城セミナー」。今回のテーマは石垣に使われる巨石の運び方について。何十トンもあるような巨石は、いったいどのように運ばれたのでしょうか。
大坂城の蛸石は日本最大の鏡石である。100トンを超えるこんな巨石は、どのように運ばれたのだろうか?
石を割った跡である「矢穴」を探してみよう
前回の「石垣の巨大な石材はどこから運ばれたの?」では、石垣に使われる石材は、城内や周囲の山・川から運ばれることもあれば、遠く海を渡って運ばれることもあったことを解説しました。でも、運ぶと言っても、トラックも重機もない時代です。河原石程度であれば「がんばって運んだんだな」と想像がつきますが、石垣には数十トンもあるような石材が多く使われています。そのような巨石をいったいどうやって運んだのでしょうか。
まず石材を運ぶ前に、運ぶことができるサイズに切り出す必要があります。石材の産出地は「石切場」と呼ばれますが、そうした場所は一山、または一島まるごと岩盤であるケースが少なくありません。石切場は読んで字のごとく「石を切る場所」であり、まずは石を切り出してから運んだわけです。
それではどうやって切り出したのか? 切り出すといっても、のこぎりなどで切ったわけではありません。底がV字状のクサビである「矢」を使って、石を割ったのです。まず、割りたいラインに沿ってノミで穴を掘ります。この穴は「矢穴」と呼ばれ、まるで切り取り線のように直線状にいくつも掘られます。その穴に鉄製の矢を差し込み、上から叩くと石は左右に割れるのです。なお、石の切り出しは洋の東西を問わずほぼ同じやり方が採用されているそうで、日本では寺社の築造のために発達した技術が城造りに転用されたと考えられています。
ノミでまず矢穴を掘り、そこに金属製の矢を差し込んで上からたたいた。割れた跡には「矢穴」が残ることがある(イラスト=香川元太郎)
石垣のあるお城に行ったら、石材の一つひとつをじっくりと鑑賞してみましょう。割れて石の端に付いた矢穴の跡や、または割れずに残った直線状の矢穴を、しばしば見つけることができます。そうした矢穴の跡からは、数百年前の戦国人の職人技術を目の当たりにすることができるわけです。
(左)均等に刻まれた矢穴の跡が綺麗に残る(江戸城汐見坂)。(右)割られることがなかった矢穴跡。途中まで作業して、何らかの理由で割る位置が変更されたのだろう(名古屋城巾下門跡)
巨石運搬は困難の連続!
こうして切り出した石材を、いざ築城予定地まで運ぶわけですが、遠方の場合は水運を利用しました。石船の構造は普通の商船とあまり変わらなかったようで、甲板に多くの石材を積み込んだのですが、数十〜数百トンもの荷物を載せた船は不安定になるに決まっています。高波や暴風で沈没した石船は数知れず、江戸城築城の際には三百隻もの船が沈没したという記録があるほどです。また、前回も紹介しましたが、石切場の近くにはなぜか途中で運搬が中止された「残念石」が多く残されています。
萩城山頂の石切場に残る巨石。縦横に切り取り線が入れられているが、途中で作業が中止になったようだ
さて、無事に築城場所近くの港に到着したら、あとは陸路で運ばざるを得ません。陸上運搬に活躍するのが「修羅(シュラ)」。木々を組んだソリのことで、修羅の下に敷いた丸太が車輪代わりとなり、多くの人足が引っぱりました。小さめの石材だと石持棒に縛り付けて、人足が担いで運んだようです。何にしろ陸路は人力頼り。何百、何千人という人足が動員されたのでしょう。途方もない労働力ですね。
陸揚げされた巨石は修羅や石持棒、地車などによって運搬された。修羅に載せられた巨石の上では、楽師らが音頭をとり人足たちを鼓舞することがあった(イラスト=香川元太郎)
こうして運ばれてきた石材は、そのまま積まれることもあれば、現場でさらに加工されることもありました。ここから先は積み方の問題。石垣の積み方とその種類については、回を改めてしっかり解説することにしましょう。
執筆者/かみゆ
書籍や雑誌、ウェブ媒体の編集・執筆・制作を行う歴史コンテンツメーカー。