戦国武将と城 豊臣秀吉と城 第3回|秀吉が京都二条に築いた妙顕寺城とは

日本城郭協会理事長  小和田哲男先生による「戦国武将と城」をテーマとした講座。豊臣秀吉が京都における宿所として、妙顕寺城を築かせたねらいとは?


聚楽第築城前の秀吉の京都における居城

秀吉は、天正11年(1583)4月21日の近江賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、信長後継者としての地位を確立すると、その年9月1日から大坂城の築城にかかり、そこを居城とした。信長が安土城の次に大坂の石山本願寺跡地に居城を移す計画だったといわれ、その計画を踏襲した可能性がある。

しかし、その頃、衰えたとはいっても朝廷勢力はあなどりがたいものがあり、秀吉は、はじめ、内裏を大坂に移そうと考えた。大坂遷都構想である。ところが、それは秀吉が考えたほど甘くはなく、結局、いつしかうやむやにされてしまったのである。

そうなると、信長が安土と京都を何度も往復したように、秀吉も大阪と京都を頻繁に往復する必要にせまられることになり、信長が京都における宿所として本能寺や妙覚寺を使ったように、どこか宿所を用意する必要があり、そこで選ばれたのが、現在、京都市上京区押小路小川西入の地にある妙顕寺であった。本能寺や妙覚寺と同じく日蓮宗の寺院である。

ただ、注目されるのは、秀吉の場合、妙顕寺の堂坊を間借りするのではなく、城として築かせている点である。そのため、妙顕寺城ともよばれている。それは、信長が明智光秀に本能寺を襲われ、防戦叶わず殺されたことを教訓としたものと思われる。

妙顕寺城
妙顕寺城址

秀吉が二条の地を選んだのはなぜか

この妙顕寺城の場所は、のちに徳川家康が築いた二条城の東南およそ200メートルのところに位置しており、信長が足利義昭のために築いた二条城(二条古城)や、信長がはじめは自分のために築きはじめ、結局は正親町(おおぎまち)天皇の皇太子誠(さね)仁(ひと)親王に与えた二条御所(二条新城)に隣接している。

実は、こうした位置関係から、秀吉が京都における宿所として妙顕寺城を築かせたねらいが垣間みえるのである。信長が義昭のために築いた二条城の場所は、13代将軍足利義輝の室町殿があったところである。いってみれば、二条というのは、武家政権にとって聖地といってもよいところなのである。のちに、家康が二条城を築いたのも同じ理由である。

二条城、徳川家康
徳川家康の築いた二条城

秀吉による大坂遷都計画が頓挫したときの秀吉の政権構想がどのようなものだったかわからない面もあるが、秀吉が備後の鞆(とも)に流寓している足利義昭に、「猶子にしてほしい」と打診していたことからもうかがわれるように、征夷大将軍として、つまり、武家のトップとして全国の武士の上に立つことを考えていたものと思われる。武家政権の聖地ともいうべき京都二条に自分の城を築くことは自然のなりゆきといってよい。

しかし、秀吉は将軍にはなれなかった。その代わり、天正13年(1585)7月11日、関白に任官する。史上はじめての武家関白の誕生である。関白となると、関白としての職務を全うするため、京都にも生活の基盤が必要になり、そこで築かれたのが翌14年2月21日からはじまった聚楽第の築城である。

関白となれば、武家政権の聖地である二条の地にこだわる必要はなくなり、むしろ、古代平安時代の大内裏(だいだいり)の跡地「内野」の方が関白としての政庁を置くのにふさわしいと考えたのであろう。

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小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。

著書『戦国武将の手紙を読む 浮びあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
          『井伊直虎 戦国井伊一族と東国動乱史』(洋泉社、2016)ほか多数

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