超入門! お城セミナー 第18回【構造】石垣の巨大な石材はどこから来たの?

初心者向けにお城の歴史・構造・鑑賞方法や、お城の用語など、ゼロからわかりやすく解説する「超入門!お城セミナー」。石垣が累々と続く城を訪れて、「この石はどこから持ってきたの?」と疑問に思ったことはありませんか? 



江戸城、巨石、石垣
 重さ数十トンもあろうかという石垣の巨石は、いったいどこから運ばれたのだろうか?(写真は江戸城の中の門)

石切場がいまだに不明な城も多い

ある城を訪れたとき、行く前は見どころとも思っていなかった高石垣に目を奪われるという経験をしたことがないでしょうか。天守ほどの華やかさはありませんが、累々とのびる石垣群、そして身長ほどもあろうかという一つひとつの石材は、訪れる人に驚嘆と畏敬の念を想起させます。大阪城(大阪府)に残る日本1位、2位を誇る「蛸石」や「肥後石」は、高さ5m、幅10mを超え、重さも100トン以上あるといわれています。

こうした石垣の圧倒的な迫力に触れると、「いったいこんな石、どこから持ってきたのだろうか」という疑問を持つ人も多いことでしょう。

城の巨大な石垣は、どこから運ばれてきたのでしょうか? 石垣に使われる石材の産出地は「石切場」や「採石丁場」と呼ばれますが、各城の石切場がどこにあったのかを書き残している史料は、たいへん少ないのが実情です。私たちも普段、アクセサリーの原石やレアメタルの産地を気にしないまま使用していることが多いので、それと同じ感覚かもしれません。

熊本城、北側、石垣
熊本城北側の石垣は20mにも達するが、石材の産出地は判明していない

ですので、石材のでどころが不明な城は意外と多いのです。例えば熊本城(熊本県)もそのひとつ。鉄壁の総石垣の城であり、熊本大地震による石垣の崩落もニュースになりましたが、それらの石がどこから運ばれてきたものなのかは、諸説ありますがイマイチはっきりわかっていません。あれだけの量の石材ですから、わからないなんておかしいですよね。石山をひと山丸ごと削って、現在は山の痕跡も残っていないとか?なんて考えてしまいます。

一方で、城の周囲に石切場跡が残っているケースもあります。例えば、姫路城(兵庫県)の石材は近郊の砥掘山や鬢櫛山(びんぐしやま)、別所谷などが産出地だったことがわかっていて、石を切り出した痕跡も残されています。城が建つ場所自体に石切場があるケースも多くあります。例えば、関東では珍しい中世の石垣の城として知られる太田金山城(群馬県)は、山全体が岩盤のようなもので石材には困りませんでした。また、天空の城でおなじみの竹田城(兵庫県)は、城のある山から尾根伝いの観音寺山が石切場になっていて、今もごろごろと石材が転がっています。

太田金山城、大手虎口、石垣実城、本丸、
(左)太田金山城の大手虎口の復元された石垣。(右)実城(本丸)の周囲は岩盤がむき出しとなり、石を切り出した跡も残る

海を渡って運ばれた江戸城や大坂城の巨石

さて、ここまでは大名が築いた城について説明してきましたが、これが徳川幕府の命令で築かれた巨大城郭になると、事情が変わってきます。

徳川幕府の中心地であり将軍の住まいである江戸城(東京都)は、30近い大名家が動員されて、天下の政庁たる大城郭へと改修がされました。石垣造りも「この場所は細川家、この場所は前田家」といった感じで割り当てられ、石材を切り出して運ぶのも、各大名家の役割とされたのです。大名らは将軍さまに良い顔をするため、良質の石材を江戸まで持ってきました。堅牢で見栄えのよい花崗岩を、遠く摂津(大阪府)や瀬戸内海から運んだといいます。

とはいえ、遠方からでは輸送もたいへん。江戸城に使われた石材の多くは、伊豆や相模(神奈川県)、または関東平野周辺の山々から切り出されたようです。特に主だった産出地となったのが伊豆半島です。半島東岸にあたる七ヶ浦、伊東、川奈、稲取などが石切場となり、大名家ごとに丁場が設けられ、競うようにして石材の切り出しが行われたといいます。

江戸城、石切場、ナコウ山、丁場跡
江戸城の石切場となった伊豆半島で、特に切り出しが多かったとされるナコウ山の丁場跡(伊豆市教育委員会提供)

大坂の陣によって豊臣家が滅亡した後に建て直された大阪城も事情はいっしょで、石垣造りは諸大名に命じられました。大阪城の巨石の多くは花崗岩が使われていますが、近くに花崗岩の産出地はありません。諸大名は、生駒山や六甲山、または瀬戸内海の島々から巨石を運んだのです。特に全島が花崗岩でできている瀬戸内海の小豆島や犬島は、石材の格好の供給地。今も両島には、切り出したのに運ばれなかった、または運ばれる途中で放棄された「残念石」を島内のあちこちで見ることができます。

小豆島、切り出し跡、大坂城残石記念公園
(左)小豆島に残る切り出し跡(小豆島教育委員会提供)。(右)小豆島の大坂城残石記念公園には残念石が集められている(土庄町教育委員会提供)

上で触れた大阪城の巨大な蛸石や肥後石も、小豆島や犬島から運ばれたと推定されています。そうなると、次にまた疑問が湧いてきます。「数トン、数十トンもあるような巨大な石材を、どうやって運んだのだろうか?」。次回では、石材を切る方法や運搬方法を解説しますので、どうぞお楽しみに!


執筆者/かみゆ
書籍や雑誌、ウェブ媒体の編集・執筆・制作を行う歴史コンテンツメーカー。

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